九州鉄道会社の設立と行橋地方

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 福岡県における鉄道敷設構想は、明治一三年(一八八〇)の久留米有志者と筑前共愛会の計画までさかのぼることができる。筑前共愛会は福岡県の士族と豪農の民権運動家を中心とした思想・活動団体であるが、この鉄道問題が本格化するのは明治一五年である。その前に設立された日本鉄道会社が東北線(上野-青森)だけではなく、九州でも門司-熊本間と長崎線を予定線路としていたからである。
 九州鉄道会社の成立過程については、中村尚史『日本鉄道業の形成』(日本経済評論社、平成一〇年)が優れた史料を広く使用して、詳しい分析を行っている。また『福岡県史 通史編 近代産業経済(一)』(福岡県、平成一五年、以下福岡県史とする)も詳細である。主としてこれらによりながら、行橋地方から九州鉄道の設立を見よう。
 一五年の福岡県会で、副議長岡田孤鹿は鉄道敷設のための「実測目論見費」の県費支出を提議した。これに対し激しい論議が闘わされた。仲津郡選出の入江淡、企救郡選出の福江角太郎・植村治三郎は賛成派に属した。この時、守田精一(仲津郡)と村上貫一郎(京都郡)がどのような意見をもっていたかはわからない。
 明治一九年、元老院議官であった安場保和が福岡県令に任命された。安場は着任後すぐに伊藤総理大臣宛に「九州鉄道布設之義上申」を提出した。これを契機に民営九州鉄道会社設立構想が具体化し、同年七月、閣議で九州鉄道民設が許可された。
 安場は直ちに福岡県内の各郡区の吏員と有志者を招集し、鉄道会社設立を説明するとともに、熊本県や佐賀県に設立を呼びかけた。この呼びかけに応じ、各県で県令や県吏員を始めとし、県会議員や有力者を巻き込んだ設立運動が展開された。明治二〇年一月の福岡県の創立委員には、仲津郡から長野盛徳(前県会議員)、京都郡から桝見茂平(県会議員)が名を連ね、企救郡三名、田川郡一名、築城郡一名で、県内二一名中、豊前が七名を占めた。
 同年一月二五日付で発起人総代松田和七郎(第八十七国立銀行)他五名から、福岡・熊本・佐賀県知事宛に創立願が提出された。資本金は六〇〇万円で、一株五〇円、一二万株とされた。この願書では、門司港-三角港(熊本県)、田代(佐賀県)-早岐港間、宇土-八代間と並び、小倉-行事間の線路が第一期工事として着手されることになっていた。
 設立運動と並行して株式募集が行われた。株式募集は順調に進み、早くも二〇年二月には予定を超え、六四〇万円に達したため、いったん募集は締め切られた。このとき福岡県は株主数一八四二人、株数三五八七七株で、それぞれ全体の株主数の二七・〇%、株数の三二・二%を占め、株数では最多であった。ただ、株主数は熊本県が四〇〇〇人を超え、全体の六〇%を占めた。
 仲津郡と京都郡の株主数と株数は表3の通りである。仲津郡は株主数三二人で福岡県の一・七%、株数は二九七四株で八・三%を占めた。京都郡は一七人、四九五株で〇・九%。一・四%であった。仲津郡の株数は福岡県内で福岡区、御井郡に次ぎ、企救郡(八・七%)と肩を並べるものであった。表からもわかるように、これは県内筆頭、そして九州でも最高の二一五〇株を応募した一人の大株主によるところが大きかった。この大株主は元第八十七国立銀行頭取で、当時京都・仲津・上毛・築城四郡郡長の清水可正であった。中村前掲書は、清水の資金は京都郡・仲津郡ほか二郡の「共有金」であったと推測している。
 
表3 仲津郡・京都郡の「九州鉄道」株主数と株数(明治20年2月)
 仲津郡京都郡福岡県
株主数株数株主数株数株主数株数
1,000株以上12,150  35,350
999~100株343011505810,090
99~50株210042201447,918
49~10株1826071076609,901
9~1株8345189772,618
合計32(1.7)2,974(8.3)17(0.9)495(1.4)1,84235,887
注:中村尚史『日本鉄道業の形成』(日本経済評論社、1998年)表6-2から抄出。
 ( )内は福岡県全体に対する百分比

 清水可正はこの株数を背負って創立期九州鉄道の重役(検査役)に就任する。中村の推測通りであれば、京都・仲津など四郡は「共有金」を清水に集中することにより、巨大会社九州鉄道の中で強い発言権を得ることができたのである。
 九州鉄道会社は、長崎県の長崎-佐世保間の鉄道敷設計画を合同し、明治二一年六月二七日に正式に本免許状が下付されて設立が認可された。