小倉-行事間開通

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 高橋新吉九州鉄道発起人総代は明治二一年三月、伊藤博文総理大臣宛に「九州鉄道会社設立並起業ノ義ニ付稟請」したが、その中で鉄道布設計画については全線路を三区に分け、門司-久留米間を第一区、久留米-三角(熊本)間と田代(佐賀県)-柄崎(武雄)間を第二区、柄崎-長崎間、有田-佐世保間、小倉-行事間および宇土-八代間を第三区とし、各区の工事を各四カ年以内、全線路の工事は免許状下付の日から一〇カ年以内に完成させるとした。
 これに対し井上勝鉄道局長官は、詳細な工事計画を要求し、全線を一三区に分ける試案を提起した。これに応じ九州鉄道側は一三区案を受け入れ、「九州鉄道工区工費及工事期限一覧表」を付して再度稟請した。これによると、小倉-行事間一三マイル(約二〇・一キロメートル)は最も遅い第一三区域とされ、工費は三九万二三三九円六五銭で、三〇年七月に工事着手し、竣工期限は三一年六月とされた。
 九州鉄道設立後、右の線路敷設予定は準備不足や株金払い込みの不成績などで何度も延期されたが、博多-久留米間(第三区)は政府の特別補助金の下付を受け、ようやく明治二二年一二月三日に博多-千歳川(久留米)間が開通した。その後土地収用法が公布されたため、鉄道用地買収が困難になったとか、金融景況から株金払い込みが困難になったとか、洪水により堤防が決壊したためとか、種々の理由で門司-遠賀(第一工区)、遠賀-博多(第二工区)、久留米-高瀬(第四工区)、田代-佐賀(第五工区)、高瀬-熊本(第六工区)などについて次々と竣工期限の延長願いが出された。また熊本-三角(第七工区)、佐賀-柄崎(第八工区)なども、それに伴い着工延期願が出された。
 しかし、第一三工区の小倉-行事間は第八工区以下を飛び越し、竣工期限を二八年一二月に繰り上げる申請が二七年一月に、さらにそれを三月に短縮する申請が二七年四月に大蔵大臣より認可された。多くの路線が当初の予定を延期されるなかで、小倉-行事間の竣工期限は大幅に三年も短縮されることになった。これは接続を予定していた豊州鉄道の行橋-伊田間の開通が迫ったためであった。
 九州鉄道は難工事が予想される路線や収益の見込みが薄い路線を先送りし、工事が容易で、豊州鉄道と結び、田川郡の石炭輸送によって大きな収益が見込まれる小倉-行事間を重視したのである。筑豊炭田は二二、三年の選定坑区制の実施により全国の耳目と資本を集め、近代化と大規模化を進め急速な発展を遂げつつあった。中でも輸送手段がなかったため開発が遅れていた田川郡南部は、豊州鉄道によって大きな発展が予想されていた。
 行橋地域は、資金を集中して九州鉄道内の発言権を確保し、従来の経済的基盤を土台とし、新たに石炭鉱業の発展を追い風として、小倉-行事間の鉄道の早期敷設を勝ち取ったのである。こうして小倉-行事間は明治二八年四月一日に開通した。政府は小倉-行事間および佐賀-柄崎間(開通は五月五日)の竣工に対し、特別補助金八万四二〇〇円を下付した。