豊州鉄道の発起人

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 明治二二年六月二人日付けで、小倉町の神崎徳右衛門外一六人は、資本金一五〇万円、総延長五〇マイル(八〇・五キロメートル)の「豊州鉄道会社創立願」を総理大臣黒田清隆宛に提出した。
 創立願に後で付け加えられた発起人「総代」は、表4の◎印の一七人の人々である。郡町別に見ると、京都郡行橋町四人、企救郡小倉町五人、仲津郡豊津村一人、上毛郡八屋町二人、下毛郡中津町五人である。この一七人と関係町村が豊州鉄道発起の中心であった。小倉と行橋は九州鉄道行事線の始発終着点であり、八屋と中津は九鉄から外れた町である。八屋、中津にとって鉄道敷設は強い願いであり、小倉と行橋にとっても鉄道の延長は大きな利点があった。
 
表4 豊州鉄道会社発起人
〔宇佐郡〕15人 1600株  △200株 水之江浩(封戸村) △100株 渡辺杏三、清瀬善三、渡辺蓑作、渡邉完(以上四日市村)、南精一(長洲村)、北鉄十郎(駅館村)、川谷彦三郎(横山村)、松本貞治、都留茂一、松本伝十郎、佐藤又四郎(以上北馬城村)、麻生雄三(麻生村)、麻生貞樹(辛島村)、恵良達三(柳ケ浦村)
〔下毛郡〕20人 2200株  △200株 森久嘉栄(中津町) △150株 河野円六、須賀友愛(以上中津町) △100株 菊池安之丞、◎菊池直次郎、菅沼堅太郎、梅田才三郎、和田基太郎、山口半七、◎小畑利四郎、◎中野松三郎、◎井上壮三郎、竹岡茂平、◎末貞友年、佐々木清、太田茂一郎、糸園辰次郎、島津万次郎、八坂市蔵、冨永衛二(以上中津町)
〔上毛郡〕3人 300株  △100株 ◎小佐勘治、◎岩井伴七(以上八屋町)、新具芳三郎(岩屋村)
〔築城郡〕2人 200株  △100株 ◎浅尾三保吉(角田村)、久良知重敏(下城井村)
〔仲津郡〕9人 1680株  △500株 ◎清水可正=九鉄検査役(豊津村) △380株 宮下賢造=県会議員(豊津村) △180株 重岡卯三郎(豊津村) △120株 島田快三(豊津村) △100株 伊藤惣記、入江淡=元県会議員、亀田平太郎(以上豊津村)、柏木小三郎(西犀川村)、高田常作(南犀川村)
〔京都郡〕7人 950株  △200株 ◎柏木勘八郎(行橋町) △150株 ◎草野円治、◎福島甚六、◎草野信吉=県会議員(以上行橋町) △100株 長野盛徳=元県会議員・九鉄三国委員予備、冨永方雄、桝見茂平=県会議員・九鉄三国委員予備(以上行橋町)
〔田川郡〕15人 2650株  △300株 安永彦七(上野村) 紅田市造=元県会議員・筑鉄発起人(金川村)、宮城中意(添田村) △240株 中村勝次郎(彦山村) △210株 日高武八郎=九鉄発起人(方城村) △200株 園田熊太郎=元県会議員・九鉄三国委員(津野村)、中嶋通作(添田村) △170株 植田与六(大任村) △130株 宮田喜千蔵(添田村) △100株 加藤玄秀=筑鉄発起人(香春村)、伊藤半(中元寺村)、斉城源六(英彦村)、早川龍蔵=元県会議員・筑鉄発起人(方城村)、佐々木正懋=元県会議員(津野村)、重藤格次郎(安真木村)
〔企救郡〕14人 1900株  △300株 ◎神崎徳右エ門=九鉄三国委員、◎斎藤美知彦=九鉄常議員(以上小倉町) △150株 ◎神崎岩蔵、林治郎太(以上小倉町) △100株 ◎守永久吉、◎守永勝助、吉永甚四郎、田中太郎、松田和七郎=九鉄三国委員、青柳四郎=県会議員(以上小倉町)、中村為弘(板櫃村)、垣永新作(文字ケ関村)、前田敬八郎(足立村)、福江角太郎=県会議員・九鉄三国委員(東紫村)
出典:「発起人名并引受株数」(「鉄道院文書」第10門巻18)
注:◎印は発起人総代(「豊州鉄道会社創立願」同上)

 総代の神崎・守永は小倉の豪商で豊前地方の金融界でも中心に位置しており、行橋町の柏木・草野・福島は豪商兼大地主であった。旧小倉藩士である清水可正については九鉄の項で触れたが、斎藤美知彦も同様に旧小倉藩士で清水の後の第八十七国立銀行頭取を務め、二一年には清水を超える九州鉄道の大株主となり、常議員に選任されている。これらの発起人総代によって豊州鉄道の発起株引受者が募集組織された。
 発起株引受け者は、表4の通り豊前八郡を網羅し八五人を数え、引き受け数は一万一四八〇株であった。当初の計画は、資本金一五〇万円で一株五〇円、三万株であったから、発起人引受け株は三八%強にあたる。しかし発起人数と引き受け株数の郡別分布を見ると、かなりばらつきがある。発起人数を見ると、最多は下毛郡中津町の二〇人で、発起人総代がいなかった宇佐郡・田川郡が一五人で第二位に位置する。小倉町を主とする企救郡一四人、豊津村を主とする仲津郡九人が続き、京都郡行橋町は七人であった。上毛郡は二人の総代がありながら引き受け者は三人にすぎず、最少は築城郡の二人である。株数の最多は田川郡の二六五〇株で、中津町も二〇〇〇株を超える。続いて企救郡、仲津郡、宇佐郡となり、行橋町は九五〇株で六番目になる。
 発起人は清水・斎藤を初め九州鉄道の発起人との重複者がかなりある。これに対し筑豊興業鉄道会社の発起人との重複は田川郡で見られるだけである。
 設立運動の具体的経過を明らかにする史料がないので事実を示し、推測することができるだけであるが、すでに明治二〇年、中津地方の有志者は九州鉄道会社の設立計画を聞くと、第一三工区の小倉-行事間の延長を熱望、して強力な運動を行った。これが豊州鉄道への期待となったのであろう。内陸部の田川郡は石炭や米穀などの輸送手段の確保が他の郡以上に切実な問題であったことがうかがえる。