豊州鉄道の設立目的

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 豊州鉄道の設立目的を具体的に見てみよう。「豊州鉄道会社創立願」は次のように述べている。
 
 豊前八郡ノ地タルヤ、山ヲ負ヒ海ニ臨ミ土地肥沃ニシテ最モ物産ニ富メリ、且ツ田川郡炭田ノ如キ、採掘ノ巨額ト品質ノ佳良固(もと)ヨリ言ヲ待タス、而シテ之カ運搬ニ至リテハ、赤池西北ハ既ニ筑豊興業鉄道会社ノ創立ニ由リテ其便ヲ得ントスルモ、其東南地方ノ如キハ運搬ノ便未タ開ケサルヲ以テ採掘尚ホ充分ナラス、又大分県日田、玖珠ノ両地方ヨリ豊前中津ニ輸送スル物産モ亦不尠(すくなからず)、加之(しかのみならず)豊前各郡産出ノ米穀及雑貨等ヲ併セ、他ニ輸出スル其額挙テ数フ可カラス、然リ而シテ各郡海ニ瀕スルモ概ね海低(ママ)浅フシテ、巨船大舶ノ輻輳(ふくそう)スル一ノ良港アルナシ、物産如斯(かくのごとく)夥多ナリト雖トモ、唯運輸ノ不便ヲ浩歎スルノミ、曩(さ)キニ九州鉄道会社ノ設立アリテ運輸交通ノ便ヲ図ルト雖(いえ)トモ、該社計画ノ線路ハ豊前門司港ニ起リ熊本又ハ長崎ニ達シ専ラ九州西北方位ヲ主トス、顧テ其東南ヲ問ヘハ、僅カニ豊前小倉ヨリ行事ニ至ル数哩ノ支線ニ熄(や)ム、未タ之ヲ延長スル計画アルヲ聞カス、亦遺憾ニ堪ヘサル所ナリ、門司築港ハ已ニ允可(いんか)ヲ得テ日ナラス起工シ、九州鉄道亦門司-熊本間ノ工事ニ着手シタリ、尋テ各地本支線ノ貫通竣工ヲ告ル知ヘキナリ、果シテ然ラハ九州西北部ハ大ニ運輸交通ノ便ヲ得テ、各種ノ事業活溌運動ノ域ニ達センコト将ニ遠キニアラサルヘシ、独リ東南部ハ依然旧径ニ躊躇(ちゅうちょ)シ、国利民福不振ノ旧態ニ安スルハ、社会開進ノ今日ニアリテ亦能セサル所ナリ、以テ一昨年九州鉄道会社創立ノ際、中津地方ノ有志者ハ行事支線ノ延長ヲ熱望シ、大ニ同社ニ謀リ之カ計画ニ従事セシト雖トモ、当時種々ノ事情ニ制セラレ遂ニ共同起業ノ運ニ至ラスシテ止ミタリシカ、今ヤ時機熟シ、茲(ここ)ニ豊前八郡ノ同志協力合資以テ豊州鉄道会社ヲ組織シ、線路ヲ京都郡行橋町即チ九州鉄道行事支線ノ止マル所ニ起シ、築城郡椎田、上毛郡八屋、宇ノ島、下毛郡中津ヲ経テ宇佐郡四日市ニ達ス、此里程廿八哩(マイル)此ヲ幹線トシ、又行橋町ヨリ分岐シテ仲津郡柳瀬、崎山、田川郡油須原、今任、伊田、後藤寺及田原ヲ経テ仝(どう)郡猪膝村ニ達シ、尚ホ今任村ヨリ北折中津原ヲ経テ香春村ニ、南折柿原及伊原ヲ経テ添田村ニ至ル、此里程廿二哩是ヲ支線トス、此延長総里程五十哩ノ鉄道ヲ布設仕度(つかまつりたく)、蓋シ此本支線ノ如キハ、道路平坦工事ノ容易ナル他ニ多ク其類ヲ見サル可シ、特ニ此支線ノ成功ニ至ラハ、数千年来地下ニ埋没セル炭田ヲシテ今日必需ノ一大物産トナスノミナラス、一朝門司港ニ於テ外舶ノ急須(きゅうす)戦艦商船其他諸製造所ノ需用ニ応スル等、喋々之レカ弁ヲ要セサルナリ、而シテ将来物品ノ輸出愈々(いよいよ)増加シ、乗客ノ往来益々頻繁ナルニ随テ、本線ハ宇佐郡四日市ヨリ豊後国大分ニ延長シ、支線ハ田川郡香春村ヨリ金部(金辺)峠ヲ経テ小倉ニ通シ、則チ九州鉄道ノ本線ニ接続セシムル等漸次請願ノ見込ニ有之候得トモ、先ツ今般布設ノ分別紙工費概算収支予算略図及出金名簿相添ヘ茲ニ私設鉄道条例ヲ遵奉シ請願仕候条、該線路実地測量ノ義至急御許可被成下度(なしくだされたく)、此段奉願候也
(「鉄道院文書」第一〇門巻一八)

 
 創立願は豊州鉄道設立目的を明瞭に示している。九州鉄道は福岡、熊本、佐賀、長崎と九州西部の輸送交通の整備を目的とし、東部はわずかに小倉-行事間のみの計画に留まっている。豊前を主とする東部が近代的交通運輸制度から取り残され、社会と産業が旧態依然に留まる恐れがあることに強い危機感を表している。まさに現在にも相通じ、共感するものがある。豊州鉄道は九州鉄道を補完し、九州鉄道と一体化することによって、九州東部の経済的立遅れを防ぐことを主要な目的とした。
 もう一つは石炭輸送問題である。筑豊石炭鉱業の勃興期において、筑豊の石炭がすべて筑豊興業鉄道によって筑前部(旧福岡藩)の遠賀川沿いに若松港に積み下げられることに対する焦燥感である。なお旧藩意識が残っていた当時、少なくとも豊前(旧小倉藩)田川郡の石炭は豊前国内を経て門司港に積み下げたいという、郷土愛とでも言うべき地域意見を表明している。もっともこの意見が旧小倉藩内(豊前六郡)で一致したものであったかどうかは疑問である。田川郡では前に見たように、鉄道会社や路線を問わず、輸送問題の解決こそ急務であったからである。