体制立て直しと田川採炭会社との合併

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 明治二三年、恐慌の真っ只中に豊州鉄道は設立された。第一次企業勃興期といわれる旺盛な企業ブームの中で、新設会社の株式払い込みが明治二二年後半期に集中し始め、折からの米価騰貴と重なって生じた金融逼迫は二三年三月頃がピークであったといわれる。金融逼迫によって株価は暴落した。豊州鉄道の資金調達もこの影響をまともに受けた。
 それだけではなく、二四年七月に福岡県を襲った豪雨は、筑豊の諸炭鉱に大きな被害をもたらした。さらに翌二五年に、筑豊の諸炭鉱は深刻な炭価暴落に見舞われる。二二、三年の坑区バブルと機械化による生産拡大の反動はすさまじかった。炭鉱経営者だけでなく、豊前地方は直接間接にこの影響を受け、豊州鉄道の株式募集と払い込みは大きな困難に直面した。
 「豊州鉄道線路変更并竣工期限変更願」はこの間の事情を次のように記している。
 
……去明治廿三年一一月、三箇年ノ竣工期限ヲ以テ免許状御下附相成候処、当時金融壅塞(ようそく)工業不振、政府ニ於テモ時勢ヲ洞察セラレ、私設鉄道買収ヲ企図セラレシ程ノ機運ニ際会シ、株金募集ニモ困難ヲ極メシト雖(いえども)、辛ク経営シテ纔(わずか)ニ起工ノ緒ニ就キ候処、翌二四年秋当地方非常ノ水害ヲ被リ、折角施設セシモノモ悉(ことごと)ク烏有ニ帰シ、剰(あまつさ)ヘ道路堤塘ノ破壊セシ為、爾後壱年有半ハ地方挙テ其復旧工事ニ狂奔シ、我鉄道ノ如キハ夫等(それら)焦眉ノ事業完了ヲ待テ起手センコトヲ沿道人民ヨリ要求セラル……
(「鉄道院文書」第一〇門巻一八)

 
 体制を立て直し、株式募集が再開されるのは、明治二六年である。本免許状が下付される際に条件とされた三カ年の竣工年限測量期限の一一月一九日が迫ってきていた。「門司新報」によると、八月二〇日株主総代会を小倉で開催し、行橋町の草野信吉を含め、七郡から一二名が出席した。企救郡六名の中には堤猷久がいた。堤は行事の新屋として著名で、県の課長などを歴任したあと、明治二三年第一回総選挙以来第七区(企救郡・田川郡)から衆議院議員に選出されていた。この総会で資本金を再び一五〇万円(三万株)とし、そのうち一万五〇〇〇株は京阪地方で募集し、五〇〇〇株を豊前地方で引き受け、田川採炭会社と合併することが決定された。
 田川採炭会社は採掘が軌道に乗り始めていたが、輸送問題が経営上のネックとなっていた。そこで、臨時株主総会を開いて次のように合併を可決した。
 
 八月廿八日本社ニ於テ臨時株主総会ヲ開キ、豊州鉄道会社ト伊田坑区ト本会社トヲ合併ノ申込ニ付承引スヘキヤ否ノ件ト、筑豊興業鉄道会社ヨリ提出ノ運炭定約書ニ仝意(どうい)スヘキヤ否ノ件ニ付開会シ、九州炭鉱鉄道発起人ヨリノ申込ニ応スルコトニ可決
(「田川採炭会社第七回株主総会報告書」)

 
 北海道炭礦鉄道会社を手本とし、炭鉱と鉄道を兼営する強力な会社を設立することが決定されたのである。明治二六年九月一〇日、豊州鉄道株主総会が開催され、新会社の創立委員として、委員長田中市兵衛(大阪)・委員西田栄助(大阪)・福島良助(大阪)・桑原政(大阪)・斎藤美知彦(小倉)・堤猷久(小倉)・守永勝助(小倉)の七名が決定された。小倉の三人が旧豊州鉄道の代表で、福島は田川採炭社長、桑原は同取締役、田中は同大株主であった。同時に相談役として川上左七郎(大阪)・松本重太郎(大阪)・松田源五郎(長崎)・熊谷直候(田川)を選任し、線路測量技師に元九州鉄道技師野辺地久記を雇い入れた(「門司新報」)。
 しかし、新会社の名称を九州炭鉱鉄道と変更するなら、再び鉄道会議の承認を必要とし、多くの手続きを踏まなければならないため、名称は豊州鉄道のままとした。この経緯は次のようにいわれている。
 
 始メ豊州鉄道ノ起リシトキ九州炭礦ノ名ヲ冠セシモ、鉄道会社ノ採炭事業ヲ兼ヌルコトハ法律上之ヲ許ササルノ明文アリ、公然合併ノ手続ヲ了スルコト能ハサリシ為メ、表面各別ノ事業トシ、採炭事業ハ福嶋良助一人ノ名儀トシテ千早正次郎ヲ鉱業代理人ニ届出テ、田川採炭坑ト呼ビタリシモ、其実豊州鉄道ノ採炭部トシテ営業セリ
(『三井田川炭山沿革誌』)

 
 新会社の計画は、明治二六年九月二三日の「門司新報」によると次のようであった。
 
会社設計の要点を一言せん乎(か)、先つ資本金は一五〇万円とし
田川行橋間鉄道敷設費 七拾五万円
  (一哩(マイル)五万円と見積り一五哩の積算)
炭礦買上代      五拾万円
  (採炭会社三拾五万円、伊田坑区凡そ七万円)
炭礦採掘費      二拾五万円
  (採炭会社機械の完備一切の整理費五万円、伊田坑区創業費廿万円と見積り)