行橋町内の線路と停車場

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 明治二六年秋から建築部事務所が行橋町行事字西町に設置され、土地買収委員も決定し、具体的に線路の再測量に入った。ところが町内の線路問題で、町会は線路を町の下手にとるか上手を通すかで、町会空前の一大波瀾を生じた。結局、下手論者が多数を占め、玉池彦四郎・福島甚六・長野盛徳・尾形昌三の四人が下手敷設を九州鉄道および豊州鉄道両社に請願した。
 しかし会社はこの意見を容れず、停車場は宮市田町に設置し、線路は街の上部、即ち小波瀬から行事、博多町、宮市、大橋八幡神社の後ろを通過して、今川を渡り泉村に至ることに決定した。この停車場と線路は、その後現在に至るまでの行橋町の都市形成の骨格を決定することになった。