行橋から中津を経て四日市(現宇佐市四日市)に至る本線については、明治二八年三月に「豊州鉄道線路変更並竣工期限変更願」が提出されて、終点を四日市から長洲(現宇佐市柳ケ浦)に変更する願いが出された。石炭搬出港の一つと予定されていた宇島港との連絡が容易であること、将来の線路延長にも有利であることが変更の理由であった。
久米組や太田六郎等が工事を請負い、明治三〇年九月二五日にようやく本線二七マイル六三チェイン(四四・七キロメートル)の行橋-長洲間が開通した。この時、仲津村、祓郷村、築城村の中心駅として、仲津村道場寺に新田原駅が開業した。
先に開通した行橋-伊田間の支線は、地元の要請と石炭輸送のための営業上の理由から網の目状に延長された。伊田-奈良(現田川市後藤寺)間(二九年二月五日開通)、後藤寺-豊国炭鉱間、後藤寺-起行炭鉱間(三〇年一〇月二〇日開通)、香春-夏吉間、後藤寺-川崎間、川崎-第一大任間(三二年開通)がそれぞれ開通した。しかし石炭輸送を目的とした線は、免許を受けながら炭鉱の衰退により敷設を断念したところもあった。
これより先、豊州鉄道は明治二九年六月に行橋より門司および田ノ浦(現門司区田野浦)までの線路敷設を出願した。これは田川地方の石炭を、九州鉄道を媒介せずに直接豊州鉄道の線路で門司まで輸送しようとする計画であった。これは門司鉄道との競願となり、却下されたため、九州鉄道曽根(現小倉南区)より田ノ浦に至る線を申請して免許状を受けた。「田川線ノ布設以来採炭業ノ発達ニ随ヒ運炭額ノ増加セルニ係ハラス、行橋門司間ハ本社線(九鉄線)ニ由ラサルヘカラサルカ故ニ、百時意ノ如クナラストノ理由」(『九鉄小史』)であった。また三三年には行橋-吉志(現門司区恒見)間の貨物線仮免状を得た。自社線で直接港湾まで石炭を輸送することが、豊州鉄道の悲願であった。しかしこれらの計画は不況のためついに着工することができなかった。