九州鉄道との合併

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 明治三四年、豊州鉄道は九州鉄道との合併に踏み切る。三一、二年の不況は紡績業中心で、それ以外の産業の受けた打撃は比較的軽微なものであった。しかし三三、四年の恐慌は、紡績業だけでなく、輸出産業全体に及び、九州の石炭鉱業は採掘高の二割削減を協議実行せざるを得なくなった。石炭輸送への依存度が非常に高かった豊州鉄道は、大きな影響を受けた。
 四月の臨時株主総会における議案説明は合併の理由を次のように説明する。
 
 本会社営業モ近時著シク盛況ヲ呈シタルモ、其主因タル石炭運送ニ係ルモノニシテ、既往ノ実験ニ徴スレハ出炭ノ多寡(たか)ハ直ニ鉄道ノ盛衰ニ影響シ、往々変状アルハ免カルヘカラス、即チ石炭運輸収入ハ全額ノ七歩余ニシテ客車収入ハ三歩以下ナリ、然ルニ九鉄ノ収入ハ之ニ反シ客車収入ノ石炭運輸収入ニ比シ多額ナルカ故ニ、比較的堅固ト謂(い)ハサル可ラス、殊ニ当社吉志線本免状申請期限ハ既ニ切迫シ、且運炭増加ニ従ヒ田川線ノ複線布設ヲ要シ、差向キ壱百万円以上ノ費金ヲ弁セサル可ラサルモ、目下経済界萎縮ノ悲態ヲ考フレハ頗(すこぶる)ル困難ナリ、又嚮(さ)キニ惨憺(さんたん)ノ経済ヲ以テ布設権ヲ得タル田野浦線モ財界不振ノ為メ止ムナク起工ヲ延ハシ居リシニ、既ニ免状有効期限ノ迫ル処トナリ、加フルニ肝要ノ終点ナル田野浦湾築港ノ如キ、仮令(たとい)充分ナル事業ニセヨ、現時ノ逆境ニ向ヒ到底起工スルコト能ハサルヘシ、然ルトキハ遂ニ其目的ヲ達スルヲ得スシテ益(ますます)困難ヲ重ネントスルノ憂慮ナキ能ハサルヲ以テ、爰(ここ)ニ本議ヲ提出セシ所以(ゆえん)ナリ
(『九州鉄道株式会社小史』)

 
 右のように合併理由は、一に石炭輸送に収入の大部分を頼る経営が不安定であること、二に吉志線、田ノ浦線などの布設計画や田川線の輸送増強計画が行き詰まったことにあった。
 豊州鉄道と九州鉄道は明治三四年四月に臨時株主総会で対等合併を決議し、九月九日に合併した。行橋町に本社を置いた有力鉄道会社は消滅した。しかし行橋町が豊州鉄道の拠点であったことは、工場、機関庫、保線区、職員宿舎などを行橋駅に残し、鉄道はその後も行橋町に対し大きな影響を与え続けた。