豊前に最初に置かれた郵便取扱所は小倉(明治四年一二月五日)であった。小倉から豊後を経て薩摩国鹿児島までの全線路は、明治五年七月一日に整備され、京都郡行事、下毛郡中津、宇佐郡四日市に取扱所が置かれた。この時、同時に行事から仲津郡豊津に至る線路と中津から日田への線路も開設された。「駅逓明鑑」によると、行事郵便取扱所(現在の行橋局)の開設は明治五年二月、豊津は同年一月である。六年には右の他下毛郡宮園と築城郡松江に取扱所があった。
明治八年に郵便役所と郵便取扱所は郵便局と改称され、豊前では、新たに企救郡大里他一二郵便局が増設された。その後二〇年まで、京都郡と仲津郡では新町・苅田・木井馬場・崎山が開廃を繰り返している。
制度発足初期の郵便送付は、小倉を起点として月に六度くらいの往復であったが、明治六年八月一日からは、小倉-大分間は毎日となった。小倉-行事(現行橋局)間が三時間一〇分、行事-松江間が一時間かかり、途中の連絡時間も入れると、小倉-大分間に三三時間半かかった。
当初、郵便に関する行政は地方庁(各県庁)に委託されていたが、明治一六年「駅逓区編制法」が制定されて、直接国が監督するようになった。これによって博多駅逓出張局が設置され、筑前国全体と豊前国六郡を管轄し、小倉に分局が置かれた。一九年には逓信管理局が設置され、福岡県全体が赤間関(現下関)逓信管理局の管轄に編成換えされた。
明治一九年の郵便逓送は、小倉-鹿児島間(大分経由)と小倉-大分間は毎日行われ、小倉-大分間は人車送りだった。小倉から中津までの間では行事が郵便開閉局で、下曽根-行事-椎田-八屋で脚夫が交代した。行事-博多間も毎日あり、途中の脚夫交換場所は新町・香春・直方・飯塚・篠栗であった。行事-豊津間は、豊津の脚夫が毎日往復した。
このように、豊前六郡の郵便制度では行事は小倉に次ぐ主要局であった。