行橋地域の郵便物数

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 『福岡県統計書』によって行橋地域における郵便数の推移を見よう。しかし行橋郵便局(行事)だけを示す史料がないので、郡別の数量から推測するほかない。京都郡(旧京都・仲津両郡)管内の郵便局は苅田・木井馬場・崎山の三局が明治一七、八年に廃止されるので(「郵便史」)、その後三五年まで、行橋・新町(現勝山町松田)・豊津の三局体制が続く。三七年から統計の作成方法が大きく変化するので、まず日露戦争勃発前を見ると、京都・仲津郡の通常郵便物の発信数は増減をくり返しながら増加する。しかし、福岡県全体に対する割合は、日清戦争以前の四%前後から、日清・日露戦間期には二・数%まで低下する。これに対し、着信数は着実に増加する。県全体に対する割合も変化がなかったが、日清戦後の明治三〇年以降低下する。小包郵便も通常郵便物と同じ傾向を示した。
 行橋地域を中心とする京都郡の郵便数が増大しながら、日清戦争後、福岡県内における比重を下げるのは、県内の鉱工業、とりわけ石炭鉱業の発展により産炭地の比重が増大したためであった。石炭鉱業の発展は、石炭積み出しのための港湾にも新しい息吹を与えた。
 京都・仲津両郡を合わせた通常郵便物数は、明治一〇年代末には遠賀郡にわずかに及ばず、鞍手郡に匹敵し、田川郡と嘉麻穂波郡を上回っていたが、二〇年代初めに田川郡や嘉麻穂波郡と肩を並べ、明治三〇年になると筑豊四郡に完全に抜き去られる。豊前の中でも、石炭輸出港としての門司の地位が急速に上昇し、門司郵便局の通常郵便物は小倉を上回る。
 この傾向は日露戦争後ますます強まる。『福岡県史』によると、明治三九年度の京都郡の通常郵便物受付数は九二万六〇〇〇通で県内の二・二%、四五年度は八八万六〇〇〇通で一・八%を占めるに過ぎなくなる。一人当たりにすると、それぞれ一四・四八通と一三・八五通である。門司市は一二・八%、一二・一%を占め、小倉市のおよそ二倍となり、福岡市に次ぐ位置を占める。宇島港を持つ築上郡も躍進し、県内の割合でも一人当たり受付数でも京都郡をはるかに上回る。
 大正期の京都郡の郵便局は普通三等局八(集配五、無集配三)が長く続き、一一年に集配局六、無集配局二となり、一三年に無集配局が一増えて合計九局となる。しかし、都市化と工鉱業化の進展の中で、京都郡の通常郵便物と小包は引受・配達ともますます相対的地位を落とし、福岡県全体に占める割合は一%台となる。