電信の始まりと福岡県

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 西欧では、電信の発達が鉄道網の発展を促し、鉄道の発達が通信技術の発展を促進した。日本に初めて電信機が渡来したのは、安政元年(一八五四)である。ペリー提督が来航して、将軍に電信機や蒸気機関車の模型などを献上した。オランダも同年長崎出島の商館長を通して将軍に電信機を献上したいと申し出で、翌年現物を贈った。万延元年(一八六〇)にはロシアから、元治元年(一八六四)にはスイスからも寄贈を受けた。各国はまた徳川幕府に対して電信開設を勧告した。幕府が倒れたのち、明治元年(一八六八)新政府は電信を官営とすることとし、二年、「伝信機は幾百里相距る場所にても人馬之労を省き線の連なる場所迄は音信を一瞬間に通達する至妙の機関なり」という伝信機の布告を出し、同年一二月東京-横浜間の電信線が開通した(高橋善七『通信』近藤出版社)。
 前述した大北電信会社の海底ケーブルの長崎陸揚げにより、新政府は東京-長崎間の電信線架設を急ぎ、明治六年二月一四日には工事を完成させた。しかし、当時の人々は無知や恐怖から、電線に対して草鞋(わらじ)や馬沓(うまぐつ)を投げ掛けたり、電線を切ったり、碍子(がいし)や電信柱を傷つける者が後を絶たなかった。政府は、妨害者は国威を損なうものとして地方官に厳しい取締りを通達した。このため旧福岡県では各村町役人へ厳重な注意をし、小倉県でも各村町で組合を作って昼夜の別なく見回りをさせたりした。(『九州の電信電話百年史』)。
 こうして明治六年の福岡・小倉を始めとし、八年には久留米に電信局が設置された。一〇年一月電信局は電信分局と改称され、一一年に三池、一二年に柳河(現柳川市)にも電信分局が開設された。