大橋電信分局の開設

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 わが国の電信網は急速に整備された。明治一〇年一〇月二〇日には小倉-中津-大分間も開通した。こうした状況の中で一四年、大橋村では電信分局の設置を県当局に請願した。県知事の「明治一五年未済事務引渡演説書」(『福岡県史資料』第一輯、所収)には、「電信分局設置ノ事」として次のような申し送りがある。
 
一、管下筑前国夜須郡甘木及豊前国仲津郡大橋両所ノ人民ヨリ、電信分局設置ノ義、昨年来屡屡(しばしば)請願書差出セリ。右両ヶ所トモ地方ノ名邑(めいゆう)ニシテ、商況モ亦博多、小倉等ニ亜タ(つクの誤)ヲ以テ、速ニ許可ノ義、主務省へ上申中ノ事

 
 右の中に明治一〇年代の県内における大橋村(行事村を含む)の位置づけがよく示されている。一〇年代に福岡県が発行した「福岡県治一覧概表」や「福岡県概表」でも、常に大橋村・行事村は名邑(有力都市)に挙げられ、商業もまた盛んであった。
 右の史料に見るように、地元の強い要請と県の後押しの結果、明治一六年一二月一二日、大橋電信分局が開局する。県内では六番目で、若松・甘木や門司よりも早かった(『九州の電信電話百年史』)。
 しかし、電報の発着信数における行橋や京都郡の福岡県内の地位は、通常郵便や小包郵便よりも少し早い速度で低下する。電報は郵便に比較し商業用に多く利用されたため、門司・若松や三池などの港湾都市の発着信数が急速に増大したからである。