世界で初めて電話の実用化に成功したのはA・G・ベル(米)であった。当時、アメリカ留学中の伊沢修二と福岡県出身の金子堅太郎が日本語でも通話できるかどうかを実験したため、電話で話された言語は英語に次ぎ日本語であったというのは、有名なエピソードである。音声を遠く離れた地に直接送ることは技術的に困難であったため、通信手段としての電話の実用化は電信より遅れた。
日本では工部省の申請にもかかわらず、財政上の理由や民営・官営論争、あるいは「通話を媒介する電話はコレラも媒介する」というような噂が飛んだりして、なかなか実現にいたらなかった(前掲『通信』)。ようやく明治二三年、電話に関する最初の法令である「電話交換規則」が制定され、年末に東京・横浜両市内と両市間の電話交換業務が開始された。
福岡県内では、活発な誘致運動の結果、明治三二年に福岡に、三三年に門司に電話交換局が開局した。日露戦争中から戦後にかけて若松、小倉を始め一一局が電話交換を開始した。
行橋郵便局が電話業務を開始するのは明治四四年である。まず電話機を設置して通話が可能になり、翌四五年から交換業務を始めた。県内では一四番目であった。
最初の加入者は一六名であった。職業別で見ると、官庁三、運輸業三、旅館二で、石油商、肥料商、米穀肥料商、両替商、電灯点灯業、銀行、医師、農業各一が加入者であった。この時、明治四五年、全国の加入者は一八万余、福岡市一一五三人、門司市七一七人、久留米市六二五人を数えた。大正二年には行橋の加入者は二九名に倍増している。
郵便・電信・電話という近代的通信制度の開始と展開は、その地域の経済と行政の活動を強く反映していたのである。