平林は、天保一四年(一八四三)生まれ。熊本で漢方医学を学び、柳河賛成医学校で西洋医学を研修、更に熊本医学校に学ぶ。明治七年一二月、小倉医学校病院に勤務。同一〇年、上京して佐藤進博士に外科を学び、東京医学大学に内科、眼科を学ぶ。一一年七月、内務省の開業免許を受け、一二年五月、京都郡行事村で開業。同年一二月、郡医を拝命(『京都医師会史』)した。
明治一七年一二月五日の「福岡日日新聞」に次のような記事がある。主催者は誰か書かれていないが、発会して間もない医師組合がかかわったことは間違いなかろう。
○通俗衛生演説会 豊前国仲津郡大橋駅浄蓮寺に於て、本月廿日に開会せし衛生演説会は、医学生並びに当地方の開業医の有志一五名、聴衆五〇〇名余り満堂立錘の余地なしの盛会なりし。其の演題と弁士は左の如し。 |
「衛生の大意」 医学生 今村謹次郎 |
「自衛論 医学生 水田琢藏 |
「胎生論」 開業医 大島栄五郎 |
「衛生は則ち椿毒の基」 開業医 織田彦太郎 |
「養生の注意」 開業医 赤田壽三郎 |
「健康は万工の父母」 開業医 中野貢 |
「眼ヲ開テ古来ノ医風ヲ見ヨ」 開業医 米田彦三郎 |
明治二一年四月、福岡市の旧福岡医学校とその付属病院跡に福岡県立病院が開院した。しかし、この病院に対して、福岡県議会では「筑後や豊前地方の遠隔地は恩恵に浴さない」との議論が噴出した。議員の言い分はもっともなことで、大森治豊院長らは、県議会のこの問題を打ち消すため、県内を巡回して開業医の啓発指導を始めた。この活動を推進するため、明治二二年一〇月、福岡市に玄洋医会が発足し、この組織を全県下に広げる活動が明治二三年から取り組まれた(『京都医師会史』)。
このことを裏付ける「門司新報」の二つの記事がある。
○玄洋医会支部創立会 去る一三日仲津郡豊津町関屋亭に於て玄洋医会を開き、規約等を議決し役員を選挙した。当選の役員は会長赤田壽三郎、副会長米田昌英、幹事永末潜三、宮城隼一郎、議員平林玄意、佐野演太郎の諸氏なり |
(明治二六年九月一九日) |
○医学士の巡回 福岡病院医学士池田陽一氏は、本月二一日小倉より行橋に至り待受おりたる患者六〇余名を診察し、翌廿二日午後上毛郡に向い出発せり |
(明治二六年九月二七日) |
『京都医師会史』によると、京都仲津郡医師組合は、明治二五年一〇月、初代組合長の平林玄意のあと、第二代組合長に赤田壽三郎が選出され、明治四〇年一月二五日の組合解散まで一四年三カ月間在任した。この間、明治二六年九月からは玄洋医会京都仲津郡支部長を兼ねた。赤田は安政三年(一八五六)生まれ。明治七年から一〇年まで小倉医学校に学び、明治一一年、東京大学医学部に入学、明治一六年、卒業。明治一六年八月、豊津村に赤田医院を開業。明治二〇年四月私立豊津病院を設立して人望を集めた。