消防組創設の記念碑

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 今日の消防団の前身は、行橋ではいつごろ組織されたのだろうか。それを教えてくれる記念碑が、大橋正八幡社の境内と行事正八幡神社の前に建っている。
 二つの記念碑を見ると、まだ行橋町が生まれる前の明治一五年に大橋村に、翌一六年二月に行事村に、それぞれ消防組が創立されたことがわかる。
 明治二二年四月に、町村合併が行われ、行事と大橋、宮市の三村が合併して、行事の「行」と大橋の「橋」をとって「行橋町」となったので、それ以来、行事を第一部消防組、大橋を第二部消防組と呼んだという。
 大橋正八幡神社境内に建つ「消防組創設頌功紀念碑」の裏面には「明治一五年 大橋有志者一団の消防組を私設しもって不慮に備う 実に地方消防組の嚆矢(こうし)たり、よって官令に遵い公立その規模を拡張す 爾来(じらい)伎倆熟達、器材もまた整頓し救護の実績顕著なり ここに同志相謀り 碑を建て その略歴を叙し永くこの挙の公益を表わすと云爾 明治三六年一〇月」と刻まれており、役員として、川崎清太郎、山田由蔵、森渕悦太郎、進定吉、玉井太七らの名が記されている。
 大橋村消防組は、長峡川から舟路川にかけて荷役していた川仲仕が集団的な訓練も受けており、統制もあり好都合だというので、これを中心に編成された。ポンプは汲み込み式木製だった。汲み上げ式になったのは明治四〇年頃という。
 一方、行事村の「消防組創設報功碑」は、行事正八幡神社の前にある。碑文はないが、「戸長 草野信吉君、消防組長 米谷健六君、副組長 小野萬吉君、役員 今井亀吉、紅秀一、中島直平」といった人名が刻まれている。この碑は「明治一六年二月建之」と記されているが、台石には「行橋第壱消防組中」という文字があることから考えると、実際に碑が建てられたのは、行橋町誕生の明治二二年以降のことと思われる。