明治二三年四月、暴風のため、郡内を貫流する今川の堤防が決潰した。当時、行橋町門樋の肥田酒造場南側の堤が切れ、同倉庫は倒壊し、大洪水となり、大橋一帯の町家の大部分は軒下まで浸水、宮市でも民家、田畑が浸水、町民は舟を出して用を足した。近隣の村からも炊き出しをして被災者の救助に当った。幸い人畜に被害はなかった。
洪水は明治一七年七、八、九月、二二年七月、二三年四月、二四年七月、三四年九月、三八年六月と六回にわたっている。
三四年九月一日は大洪水があり、天生田橋は落ち、今川橋は半壊、今川の堤防は肥田酒造場裏手の舟路川取入口付近が決潰、また同川の寺畔の松並木のなくなったところも決潰した。そのほか道路の破損、河川堤防の決潰したものもかなりあった。
しかし、長峡川沿いの周辺一帯は、なにごとも起こらず、人畜に被害はなかった模様。大橋一帯は泥海と化し、床上浸水、床下浸水もかなりあり、水田冠水も相当なもので、稲作に多大の打撃を与えた。
三八年の水害でも肥田酒倉付近の樋門が切れ、同倉庫二むねが倒壊、たまたま仕込中の酒桶はいずれも転覆、下正路、前川の下流まで押流され、大橋神社境内の松並木で止った。
一般住家は門樋付近は床上浸水、ほかは床下浸水で、被災者は中町の旧縁寺、山口屋付近に避難した。
二三年、三四年、三八年の水害には蓑島、沓尾の漁船が救助に出動したといわれる。舟路川の川舟も出た。また、アンドン船といわれる提灯をつけた監視船も巡回したという。
なお河川は三四年から修築工事に取りかかっていたもので、三八年災害によって大きな痛手をうけ、さらに破損個所の修理に手間どり、ついに明治四二年に完工した。数回にわたる被害にこりた県、郡、町当局は、このとき堤防の嵩上げ補強工事も併せて行い、のち水害の惨禍を免れることとなった。
洪水は明治一七年七、八、九月、二二年七月、二三年四月、二四年七月、三四年九月、三八年六月と六回にわたっている。
三四年九月一日は大洪水があり、天生田橋は落ち、今川橋は半壊、今川の堤防は肥田酒造場裏手の舟路川取入口付近が決潰、また同川の寺畔の松並木のなくなったところも決潰した。そのほか道路の破損、河川堤防の決潰したものもかなりあった。
しかし、長峡川沿いの周辺一帯は、なにごとも起こらず、人畜に被害はなかった模様。大橋一帯は泥海と化し、床上浸水、床下浸水もかなりあり、水田冠水も相当なもので、稲作に多大の打撃を与えた。
三八年の水害でも肥田酒倉付近の樋門が切れ、同倉庫二むねが倒壊、たまたま仕込中の酒桶はいずれも転覆、下正路、前川の下流まで押流され、大橋神社境内の松並木で止った。
一般住家は門樋付近は床上浸水、ほかは床下浸水で、被災者は中町の旧縁寺、山口屋付近に避難した。
二三年、三四年、三八年の水害には蓑島、沓尾の漁船が救助に出動したといわれる。舟路川の川舟も出た。また、アンドン船といわれる提灯をつけた監視船も巡回したという。
なお河川は三四年から修築工事に取りかかっていたもので、三八年災害によって大きな痛手をうけ、さらに破損個所の修理に手間どり、ついに明治四二年に完工した。数回にわたる被害にこりた県、郡、町当局は、このとき堤防の嵩上げ補強工事も併せて行い、のち水害の惨禍を免れることとなった。