大正九年一二月上旬の日曜日、午前三時ごろ、蓑島村大島第二区の民家から出火、折から横なぐりの強風にあおられて、またたく間に魚市場、漁業組合事務所から岩崎浴場までの密集した同区一帯に燃え拡がり、あたり一面火の海となった。
出火と同時に地元蓑島村をはじめ、近隣の今元、仲津、行橋、泉など各消防組が、手押ポンプを引いて駆けつけた。
火災は約五〇戸、一三〇〇余坪を全半焼して、午後六時ごろ鎮火した。原因は家人が提灯を稲屋の物置に置き忘れたものとみられる。
この火災で蓑島村は被災者住宅組合をつくり、低利資金で住宅の復旧にあたる一方、それからは三戸が一組となって、毎夜一〇時から午前三時ごろまで、火災予防と盗難防止のため夜回りを続けた。
また、京都郡内各町村でも、この火災を転機として、消防組の機動化と公設消防設置という気運を醸成することとなった(『行橋市史』)。