日本国家社会党から皇道会へ

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 初当選を果たした小池四郎は三カ月後には社民党を離党し、昭和七年五月、「一君万民の国民的精神に基き搾取なき新日本の建設を期す」という綱領を掲げる日本国家社会党(国社党)の結党に参画した。日農九同豊前連合会も、同年四月二七日の役員会で「国家社会主義新党支持」を決定し、翌年三月の豊前連合会第六回大会では、会場に「昭和維新の断行」、「皇道政治の確立」のスローガンが掲げられた(『農民運動(三)』)。
 その後、日農九同は昭和八年六月、国社党支持を取り消し皇道会(将官佐官級の在郷軍人会が同年四月五日に結成)と提携した。日農九同豊前連合会は、同年八月下旬より海軍青年将校らが犬養首相を暗殺した五・一五事件の減刑嘆願署名運動を組織的に展開していき、軍法会議の陸軍側判事長西村琢磨が豊津中学校卒業生ということもあって、わずか二日間で京都郡内男女五〇〇余名の署名を集めた(「九州日報」昭和八年九三日)。