田原春次(写真3)は、明治三三年(一九〇〇)七月二八日、行橋町の被差別部落に生まれた。行橋尋常高等小学校では初代行橋市長末松實蔵と同級生で、「男子組の秀才」として知られ、大正二年四月福岡県立豊津中学校に入学した(北原護敏『末松實譚記』)。ところが、同年秋に農業土木請負業の父が死去したため、豊津中から私立豊国中、県立小倉中に転学し、長崎のミッション系私立中学東山学院を卒業した。田原の部落解放への目覚めは比較的早く、すでに豊津中入学時には大正期部落改善団体・大和同志会の機関誌『明治之光』を購読していた。田原は早稲田大学専門部法律科に進学し、多くの農民運動家を輩出した学生運動団体・建設者同盟や、冷忍(レーニン)社(社会主義研究)、黎民創生会(部落解放を主要課題)などのサークルに所属した。
田原が主宰した冷忍社は、レーニンをもじったもので、大正九年九月に結成され、早大講師佐野学を招いて社会主義研究が行われた。田原は、こうした関係から、佐野学「特殊部落民解放論」(『解放』大正一〇年七月)の執筆に協力している(小正路淑泰「部落解放と社会主義-田原春次を中心に-」『社会主義の世紀』法律文化社)。この論文は、自主解放と階級的連帯による「よき日」の実現を訴え、全国水平社(全水)創立に大きな影響を与えた。その後田原は、アメリカに私費留学し、デンバー大学からミズリー州立大学ジャーナリズム科を卒業した。
昭和三年三月、日本へ帰国した田原は、東京朝日新聞社に入社し、翌年一二月二三日全国水平社関東代表者会議に出席して水平運動に参画した。昭和五年八月、三〇歳の田原は社会運動に専念する決意を固めて朝日を退社し、全水東京支部(東京水平社)が主催した浅草プロレタリア学校の企画・運営を担うなど、全国水平社における社会民主主義派の有力活動家として頭角を現していった。