石田新開争議

261 ~ 262 / 840ページ
 石田新開争議は、創設期京築委員会の代表的な小作争議である。今川下流域の豊前海に面した新開地六〇町歩は、元小波瀬村長石田石松によって開拓されたため、石田新開(石田干拓、石田塩田、昭和新開)と通称されている。石田新開には、昭和二年、大分県豊後地方から二一家族約六〇人が小作農民として入植した。だが、石田新開は、「飲料水は悪く、土地は低くて雨でも降れば床まで浸水し、電灯はないので、カンテラ暮し、掘立小屋を急造して、雨露を凌ぎ」(「社会新聞・北九州版」昭和七年六月二八日)という状況にあった。
 干拓事業が完成しなかった要因は、石田が事業に「巨額ノ費用ヲ投ジ従来所有セル田畑モ全部売尽シ」、「債務ニ迫ラルヽ有様ニテ土地改良等ヲナス資力ヲ欠ク」(福岡地裁小倉支部「小作調停申立事件受理報告写」旧農業総合研究所九州支所所蔵)と極端に落層化したことにあった。そこで、石田は昭和七年、入植小作農に反当四斗の小作料を請求したが、全農京築委員会に組織された小作農は小作料納入を拒否し、石田は同年五月土地返還訴訟を福岡地裁小倉支部に提訴してこれに対抗する。このとき、福岡県小作官は、石田に小作調停法にて解決すべきことを慫慂(しょうよう)し、地主・小作双方からの申立による小作料請求・土地返還に関する調停が開始されることになった。
 翌年四月五日、小作官や関係小作農らの立ち会いのもと、石田塩田の土地等級調査を実施して小作料納入の調停委員会案をまとめ、七月三〇日行橋町役場で開催された第八回調停委員会において、調停委員会案より一割減で小作側有利の調停が成立した。以上のように、石田新開争議は、小作料関係争議から土地関係争議、さらには小作調停法による調停へと転じ、一九三〇年代小作争議の特徴を具現する争議であった。