ところが、二代目九州支社長・小祝藤吉は、昭和八年五月の町村議会議員選挙に際して、白色テロの犠牲となり悲惨な死を迎えた。まず、この時の京都郡内町村議選では、行橋町(定数二四、以下同)二名、節丸村(一二)二名、泉村(一八)一名、今元村(一八)一名、祓郷村(不明)一名の計七名の全農組合員が当選し、小作農民が政治的進出を果たした(『農民運動(三)』)。しかし、選挙終了後の五月七日、小祝は節丸村上原(現豊津町)において、「村会議員選挙に落選した地主に買はれたゴロツキ共一〇数名の卑怯なる暗打ちを受けて重傷」を負い、それが致命傷となって一〇日後に死亡した(「社会新聞」昭和八年七月一五日)。五月一九日豊津村の自宅で労農葬が執行され、多くの全農福岡県連関係者が参列した(なお、堺利彦農民労働学校主事・落合久生が翌年一月二三日に発表した転向声明で運動離脱の理由の一つに掲げている「ある同志撲殺されたるも後始末に自信を持ち得ず責任を感ずる事」(「九州日報」昭和九年一月二四日)とは、この小祝の悲劇を指す)。
結局のところ「社会新聞」北九州版(九州版)は、昭和七年六月から翌年一月にかけて四号を発行したに過ぎない。しかしながら、同紙の京築委員会闘争日記、闘士消息、堺利彦農民労働学校関連記事、「京築無産者診療所」関連記事は、全農京築委員会の資料空白期を埋める運動側資料として貴重である。