昭和恐慌期の農村では、農民は粗食に耐え、自己の肉体を極限にまで酷使することで貧困からの脱出を試みた。その結果、貧困と疾病の悪循環が繰り返され、医療費の圧迫などの「医療飢饉地獄」が、極めて深刻な社会問題として浮上していった。
昭和七年六月、全農京築委員会は、「京築無産者診療所」の開設構想を発表し、「一、一般ブル医者の薬価をぐつと叩きさげろ! 俺達の病院は一日最高一〇銭の薬価で行く! 二、診察料絶対反対! 三、下手で命とりの生意気なボリ医者を叩きつぶせ」というスローガンを掲げた(「社会新聞・北九州版」昭和七年六月二八日)。