「京築無産者診療所」は、このような京都郡医師会から排除された小作農を始めとする「医療費未納者」の救済を目指して開設準備が進められていった。「医療組合規約」では、基本金分担は一口一円と抑制され、貧農層が排除されることがないような配慮がなされている。「見積計算書」は、二五坪二階建て診療所の建設費として一〇〇〇円、自転車・医師招待実費・雑費として三〇〇円の合計一三〇〇円を計上しており、「京築無産者診療所」の実現には、一〇〇〇人規模の組合員獲得が前提とされていた。これは、約六〇名という全農京築委員会の組織的実態からは極めて実現困難な数値であった。
そこで、昭和七年一〇月の全農福岡県連結成大会で、蓑干万太郎が、「我々無産階級の苦痛とする処は幾多アルガ、中デモ医療に付いては甚だ苦痛であるが故に、我々無産階級は我々自体の医療機関を持つべきである」と提案し可決された(『農民運動(三)』)。だが、結成間もない全農福岡県連に「俺達の病院」を開設できるほどの主体的力量はなく、開設運動は頓挫してしまい、京築委員会は、多様な担い手を包みこみながら「協同組合主義医療」を展開していた医療利用組合方式に方針を転換した。