こうして、昭和七年一一月二七日、「京築無産者診療所」は、名称を「ミヤコ医療組合実費診療所」と改め、第一期・第二期堺利彦農民労働学校の仮校舎となった行橋町大橋八〇三番地の三(現行橋市南大橋五丁目五番一〇号)、蓑干万太郎の自宅兼精米所を一部改装して設立された。同診療所は、一二月一〇日に診察を開始し、一二月三一日には福岡県知事より産業組合法に基づく医療利用組合として認可されている。
顧問に元陸軍一等軍医正の医学博士恒遠新、所長に築上郡築城村の開業医織田結が就任し、医師荒牧道昌、薬局主任長尾千代吉、会計野田清隆、産婆上田キミヱ、助産婦小田ハナが常駐し、顧問恒遠、所長織田、田原春次の妻で歯科医師のハル子が非常勤で診療を介助した。
入会金は一口二円、治療費薬価(括弧内は京都郡医師会協定料金)は、診察料一〇銭(自宅五〇銭・往診一円)、薬価一日一〇銭(二五銭)とかなり低額であった。そのため、開所当時は、「罹病ニ際シ資力ナキタメ充分ニ治療ヲ得ザル細民階級」に「相当好感ヲ以テ迎ヘラ」たのである(福岡県小作官「農民組合ノ関与スル医療施設ニ関スル件」旧農業総合研究所九州支所所蔵)。
だが、ミヤコ医療組合実費診療所は、診察開始から半年後には、「実費診療所改築費用ニ関シ債権者ヨリ請求訴訟起リ且ツ組合員僅少ノタメ経営困難トナリ専属医及看護婦等ノ給料支払不可能」となって経営破綻し、ついに昭和八年一一月一七日解散が決議された(同前)。