今川ダム建設反対運動は、全農組合員の他に自作農・地主層をも取り込み、それらの大衆的要求により今元村と行橋町は臨時議会を開催し、昭和九年一二月一九日「堤堰構築認可取消申請」を決議して県当局へ上申した(「九州労働新聞」昭和一〇年三月一日)。さらに、今川下流に小作地を持つ関係地主五五名は、ダム建設が「水不足を一層甚だしからしめ、水争を勃発し、延いては小作争議を深刻ならしめ思想悪化を来し」、「拙者共地主は絶えず不安の念に駆られ」るという「今川下流堰〓工事中止陳情書」を県知事に提出した(『行橋市史』)。今川水利権防衛同盟は、「工業悪水の流出に依る農耕凶作、魚介死滅、海水浴場の危険を指摘」し、「今川ダム工事真相バクロ百回連続移動座談会」の開催などで地域世論の形成を図った(「九州労働新聞」昭和一〇年三月一日)。
こうして、今川ダム建設反対運動は「地主、自作、小作人八〇〇余名の共同闘争」から反公害・環境保全運動へ拡大していった。翌年七月二六日、豊前海一八漁協の代表者三六〇余人は、「豊前沿岸十八ヶ浦三千戸魚民の死活問題」として、福岡県知事に「工場設立絶対反対」を陳情した(「九州労働新聞」昭和一〇年九月一日)。昭和一一年八月二二日、行橋町の京都郡公会堂で開催された全農福岡県連第五回大会は、「三年越シノ今川水利権問題が未ダ解決ニ至ラザルノ為メ、一般民ノ関心ヲヒキ、傍聴者約二〇〇名来聴」し、「全農福連創立以来ノ盛会」となった(藤本幸太郎「自由日記」)。