吉川兼光

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 吉川兼光は明治三五年(一九〇二)一〇月二七日、田原春次の実弟として行橋町の被差別部落に生まれ、母方の吉川姓を名乗った。私立豊国中学校(中退)から早稲田大学政治科へ進学し、兄春次が主宰した社会主義研究の冷忍社に参加した。卒業後に『西北の黎明-早稲田生活-』(文泉社、大正一四年)を刊行して大阪毎日新聞社に入社し、新設の門司支局勤務となり帰郷。この頃、自治正義団が創立され初代理事長に就任した。その後、吉川は、京城日報東京支社編集委員・調査部長を経て、専修大学経済学部講師(のち教授)に転じ政治学を担当。昭和一〇年ウイーン大学に留学して「全体主義」の理論家オットマール・シュパン(Othmar Spann)に師事した。戦前の著書に『政治学大意』(三省堂、昭和一二年)、『全体主義の理論と実際』(日本評論社、昭和一三年)、『友邦洪牙利』(新英社、同年)、『全体主義十講』(刀江書院、昭和一六年)、『海南島建設論』(大阪屋号書店、昭和一七年)などがある。戦後は旧千葉県第一区選出の衆議院議員(社会党→民社党)を務めた。