昭和三年二月の第一回男子普選第一六回衆議院総選挙では、全国で無産派候補八九人が立候補して得票総数四八万六五〇二票を獲得し、うち八名が当選した。福岡県では、旧第二区で浅原健三(九州民憲党、二万三〇一五票)と亀井貫一郎(社会民衆党、一万三九六三票)が当選し、京都郡が属す旧第四区から立候補した小池四郎(社会民衆党、三一七四票)と徳田球一(労働農民党、一四四六票)は惨敗した。
田中義一内閣は、選挙後の三月一五日、日本共産党全国一斉検挙を行い、県下で四〇〇名が検挙された(三・一五事件)。四月一〇日には、労働農民党(労農党)、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟に解散命令が出された。労農派は同年七月二二日、無産大衆党(無大党)を結成し、堺利彦が事実上の委員長に就任した。