あくまで「全国的単一無産政党」樹立のための過渡的な政党として位置づけられていた無大党のエネルギーは、支部組織の強化・拡充や、地方無産政党との合同のために費やされた。その具体的な方策の一つが、昭和三年九月に結成された「無産大衆党遊説隊」である。九州遊説には、葉山嘉樹、鶴田知也、田口運蔵、堺利彦の妻為子らが参加し、一二月九日、行橋町の京都郡公会堂で演説会が開催された。この演説会は、葉山、鶴田が行橋駅で検束されて演説会そのものに出席できず、弁士はほとんど演説中止をくらい、今元村から参加した奥正義ほか二名も行橋署に検束されてしまった(小正路淑泰「堺利彦農民労働学校(一)-農村社会運動の諸相-」『部落解放史・ふくおか』105)。
九州遊説の成功に奔走した無大党京都郡支部は、「今回の企画が北九州のみならず全九州に亘つてセンセーションを捲き起し同時に熱烈な支持の声を聞き得たことをひそかによろこぶ」という「声明書」を発表した(「福岡日日新聞」昭和三年一二月一八日)。
無大党京都郡支部は、その後、中央での無産政党合同に呼応して、日本大衆党京都郡支部(日大党、昭和三年)、全国大衆党京築支部(全大党、昭和五年)、全国労農大衆党京築支部(労大党、昭和六年)と再編されていった。