落合久生は、「今回の学校闘争から得た教訓」として、「青年分子は必ずかゝる闘争によって吾々側を支持するに至る。但し直ちに仕事を与へなければウルトラ化する危険性も同時に多い」など五点を挙げた(同前)。
この時期、豊津中学校生徒の猪本軍治(筆名猪本軍平・豊村群平)、林友信、中原醇、糒弘、前田英俊らが社会科学研究会(社研)を結成していた。彼ら社研グループは、第一期学校第四日目に堺利彦らが豊津中を訪問した際、「あるものは丁寧に敬礼し(校長が案内して居るのだ!)ある者は他のクラスの学生に知らせる為に走り、ある級では堺利彦万歳!を大声に叫んだ」(同前)。猪本、林、中原は、こうした社研活動を理由に豊津中より退学処分を受けた(中原保「堺利彦農民労働学校の波紋-豊津中学万歳事件-」)。落合が指摘したように、これらの社研グループやあるいは第一期学校で未成年者として検束された森毅は、その後、共産党系に急接近し「ウルトラ化」していった。