ところが、常設校舎の上棟式の翌日、堺利彦は、東京市麹町区麹町八丁目二四番地の自宅付近において脳溢血で倒れた。全国労農大衆党本部で開催された「対支出兵反対闘争委員会」からの帰宅中のことであった。堺が倒れたとき、偶然にも鶴田知也、高橋信夫、猪本軍兵、林友信、中原醇が堺宅の夕食に招待され、堺の帰宅を待っていた。猪本、林、中原は社研活動を理由に豊津中を退学処分となった三青年である。彼らは、人事不省の堺を抱き上げ、雨戸に乗せて自宅に運びこんだ(鶴田知也「堺利彦先生逝去さる」)。
堺為子は、「妻の見た堺利彦」(『中央公論』昭和八年四月)で翌日の模様を「堺は書くものをくれといふ、何か書かうとするが、二三字書いては調子が乱れる。五度書きかへて書けないので、私が代わつて筆をとると縺れながらも『僕ハ諸君ノ××〔帝国〕主義××〔戦争〕反対ノ叫ビノ中ニ死スルコトヲ光栄トス』と書かせた。これが真実の堺の遺言になつたのである。」と記している。