闘病生活を続けていた堺利彦は、昭和八年一月二三日、ついに「棄石埋草」の生涯を閉じた。一月二七日午後一時より東京・青山斎場で開催された無宗教告別式(葬儀委員長山川均)には、約一〇〇〇人の参列者があった。同日、ほぼ完成間近な豊津の堺利彦農民労働学校常設校舎でも社会葬が挙行された。参列者は九州・山口の無産団体代表約一〇〇名。祭壇には堺の遺影や遺墨、各無産団体からの赤い弔旗が飾られ、参列者は「床なき講堂藁筵を敷き古箱を椅子に代用」して着座した(「九州日報」昭和八年一月二九日)。落合久生司会者挨拶、浅原健三の弔辞、田原春次の堺利彦病状報告、蓑干万太郎の学校経営報告、副地英吉豊津村長の弔辞があり、各無産団体代表九名の弔辞は注意・中止を乱発された。同年六月には、全農福岡県連常任書記・野沢四郎が、企救郡より常設校舎に転居してきた。