昭和六年(一九三一)九月一八日、満州駐留の日本軍は奉天(審陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道を爆破した。この事件に端を発して満州事変が勃発し、日本軍は大軍を満州に進め、翌七年三月には、傀儡(かいらい)国家「満州国」をつくり、中国東北部を支配下に置いた。その後、日本の軍部は次第に政治を動かし、軍国主義、ファシズム化の傾向をたどり、武力による大陸進攻が始まった。昭和一二年(一九三七)七月七日、日本軍と中国軍とは盧溝橋事件をきっかけに戦闘状態となり、いわゆる日中戦争へ突入した。
日本は軍部主導の色彩を強め、ファシズム体制への道をまっしぐらに突き進んで行ったが、戦況は予想以上に深刻で、大規模化、長期化の様相を呈した。戦争の拡大と長期化は日本経済に大きな影響を与え、資金・資源・労働力が不足して、国民生活は窮迫の一途をたどった。
一方、ヨーロッパでは、昭和一四年九月、ドイツ軍がポーランドへ進撃するに及んで、イギリス・フランスとドイツの間で、第二次世界大戦が勃発。昭和一五年九月、日本はドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結んだ。
その後の対米関係は、日本軍のインドシナ進駐もあって悪化した。昭和一六年八月一日、アメリカは石油や鉄の日本への輸出を禁止し、インドシナと中国からの日本軍の撤退を要求した。そのため、日本は戦争を決意し、昭和一六年一二月八日、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲して、太平洋戦争が始まった。
日中戦争の開戦から太平洋戦争の終結までの戦時体制下の社会と、郷土の動向を振り返ってみよう。