戦争の激化によって、国家の命令で、一家の働き手である男性が、いわゆる出征という名のもとで強制的に次々と兵士として駆り出された。多くは中国大陸や南方の戦場へ送られた。戦場が拡大し、戦死者が多くなり、兵士が不足してくると、臨時召集令状が届くほどだった。
出征家族では残された老人、女性、子どもたちが一家の主にかわって働き、生業を引き継ぎ、苛酷な労働を強いられる結果になった。
農家では、出征した夫に代わって若い嫁が牛馬を使って耕作する風景も見られた。それでも労働力の不足はいかんともしがたく、農繁期には、小、中学生が動員され、出征兵士の留守宅へ稲刈りに勤労奉仕させられた。
労働力不足は、工場や炭鉱でも深刻だった。昭和一七年六月、大政翼賛会の傘下(さんか)に商業報国会が設けられた。行橋町でも商業報国隊が結成された。楠見種次(家具店主)の『思い出の記』に、次のように記されている。
「戦争酣(たけなわ)な昭和一七年の夏である。男子は応召、老人子供女子は留守を守り、灯火管制、消火訓練等で緊張の毎日でした。行橋警察署より会議所を通じ、各種業体の会員で商業報国隊の結成をするように指示がありました。その目的は軍需工場や炭鉱、壕掘り等の労働奉仕と、経済警察に協力して闇物資の取締りでありました。各種業体をまとめて隊員二〇名位を単位に、八組ほどの推進隊を結成しました」。そして、商業報国隊に組み込まれた人たちは、主に炭鉱、軍需工場に動員された。なかでも重労働の炭鉱への出勤は嫌われ、割り当ての人数がそろわず、手を焼いたという。
こうして自家の商業活動は大幅に制限され、国家の大儀のためすべて奉仕させられていった。