京都農学校を昭和一六年に卒業した川島成海は、海軍予備学生として出兵した同期生の消息を、同校の『創立百周年記念誌』に次のように記している。
私たち昭和一六年卒業生(五五名)は、第二次世界大戦の末期に戦争に動員され、ほとんどが兵役に服することになった。
戦時下の京都農学校では、午前四時間の時間割に週一回の軍事教練が組み込まれてあった。学校には、教科担当教師のほかに、配属将校の陸軍少佐と陸軍中尉、それに陸軍軍曹の三名が配属され、徹底的な軍事教育が行われた。在学三年で、一人前の兵隊に仕上げる訓練が行われたのである。学校には、それにふさわしく、全校生徒(一五〇名)が使用できる「三八式歩兵銃」が常備され、さながら兵営の如き観があった。
戦時下の京都農学校では、午前四時間の時間割に週一回の軍事教練が組み込まれてあった。学校には、教科担当教師のほかに、配属将校の陸軍少佐と陸軍中尉、それに陸軍軍曹の三名が配属され、徹底的な軍事教育が行われた。在学三年で、一人前の兵隊に仕上げる訓練が行われたのである。学校には、それにふさわしく、全校生徒(一五〇名)が使用できる「三八式歩兵銃」が常備され、さながら兵営の如き観があった。
当時、男子生徒は陸海軍諸学校、飛行予科練習生などへの進学が奨励された。それにこたえて多くの優秀な若者が軍人への道に進んでいった。
五年に及ぶ戦争は、膨大な犠牲をもたらし、川島たちの昭和一六年卒業のクラスのうち、戦死八名、沖縄特別攻撃隊二名、シベリア抑留三名の戦争犠牲者が出たという。