学徒勤労動員

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 昭和一八年六月、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、中等学校三年以上の学生が、工場や農村に勤労動員されることになった。
 京都農学校では、昭和一八年八月、北海道派遣援農奉仕隊が結成され、三年生五一名が、八月四日から二カ月間、北海道富良野町で援農奉仕を行った。生徒たちはお寺の本堂に泊り込み、朝から夕刻まで割り当てられた農家で除虫菊の除草、麦刈り、飼馬の世話、水田の除草から稲刈りなどの作業に汗を流したという。
 この学徒動員は次第に対象年齢と期間が拡大し、昭和一九年四月には女学生の勤労動員を徹底するために女子挺身隊の結成が促進された。
 京都高等女学校では、一九年五月から築城飛行場、豊津台ケ原滑空場作業に動員された。八月からは福岡市の九州飛行機株式会社、苅田町の日本曹達苅田工場、安川航空電機行橋工場に二年生以上が動員された。この間、学校内の教室が安川航空電機の分遣工場となり、二年生の一部が飛行機の部品製造に従事した。
 豊津中学校では、当初三年生以上が築城、芦屋、曽根の各飛行場に動員されたが、一九年四月からは一年生を除く全校生が日本曹達苅田工場、安川航空電機行橋工場、岡野バルブ行橋工場、国鉄小倉工機部などに動員され、教育の機能は停止状態となった。
 昭和二〇年七月二七日午後零時半ごろ、日本曹達苅田工場は米軍のグラマンの機銃掃射を受け爆弾が投下された。この攻撃で豊津中学生六人が重傷を負い、一人が死亡するという悲しい出来事もあった。