日米決戦を予想した海軍では、昭和一六年一月「新軍備計画論」をまとめ、新たに航空基地の強化と航空兵力の整備充実をうち出した。
これより先、昭和一四年一二月から仲津村、築城村、八津田村の一帯(一四五万平方メートル)にかけて開始されていた飛行場の建設は、ここに至って、周辺の住民や近隣の青年団、動員学徒を加えて、早期竣工をめざして急ピッチで進められていった。
『築城基地開設五十年史』によれば、昭和一六年一二月、長さ一八〇〇メートル、幅五〇メートルの築城飛行場滑走路と建築施設も整い、同一八年四月、築城海軍航空隊として開設した。
当初は、艦戦搭乗員の練成教育に重点をおき、基礎訓練を終えた搭乗員を実践部隊に配置するための練習航空隊としての出発だった。しかし、戦況が厳しくなった昭和一九年に入ると、若い飛行予備学生の猛訓練が行われ、次々と戦地に送り出されていった。それに伴い、飛行場の整備、施設の管理などに徴用された兵隊たちが移動してきて、飛行場周辺は基地の町となった。
昭和二〇年、沖縄戦が開始されるや、築城航空隊は特攻隊の編成基地となり、特攻機は鹿児島県の鹿屋基地に集結し、そこから沖縄に向けて出撃していった。