空襲と終戦

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 築城飛行場は、昭和二〇年、何度か米軍機の空襲を受けた。『築城基地開設五十年史』によれば、築城飛行場が初めて空襲されたのは昭和二〇年三月一八日で、米軍の艦載機グラマンによる銃爆撃だった。この空襲では稲童の民家四軒が全焼した。また、七月二五日の空襲では稲童の住民六名(男二人、女二人、子ども二人)が死亡した。
 終戦直前の八月七日には、米軍機B24とグラマンによる戦爆連合の銃撃戦で、避難中の操縦学生三七名をはじめ、兵隊、民間人など相当数が戦死した。滑走路、庁舎、格納庫などの施設も大半が爆撃により大打撃を受け、築城飛行場の機能は完全に麻痺してしまった。
 被害は、周辺の稲童、松原地区にも及び、全焼二一軒、半焼一四軒、牛馬も多数死んだ。
 次の体験談1・2は当時の戦争の恐ろしさを、記してもらったものである。