行橋市稲童 S・K(明治四三年生)
昭和二〇年三月一八日、もうその頃は、築城基地は米軍の攻撃目標となり、グラマンによる銃爆撃が連日行われました。この日も空襲警報のサイレンで外に出れず、ガラスごしに見ていると、弾がどんどん雨のように降ってきました。赤い火の玉のような曳光弾が隣の本屋とうちの納屋の藁屋根に刺さりました。家の周りには松の枝など焚物を積み重ねていましたので、家は束の間に燃えてしまいました。床下に隠れていましたが、恐ろしくなって、縁に用意しておいた位牌さんと重要書類だけ持って、敷布団を被って逃げました。隣は仏壇を出しましたが、私は何も出せずに逃げました。
主人は、若いもんがいないので警防団としてポンプ小屋に控えていました。近くの防空壕に入っていたら、田守のとらいちさんが「子どもが山に避難しているので弁当を持っていきよるけ、ちょっと入らしてくれ」と飛び込んできたとたんに、撃たれて死にました。石並の人も撃たれました。
わが家が燃え出したので、死体を押し分けて防空壕から飛び出して帰りましたが、焼けてどうしようもないので、私たちの避難していた「門司屋」の所の溝まで逃げてきました。途中、目が不自由で家にいた妹が川に落ち込んでしまったのを引き上げて、おぶって逃げてきました。主人の無事な姿を見てホッとしました。