H・S(昭和五年生)
敗戦の色が濃くなった昭和二〇年、行橋、築城周辺から通勤していた中学生は、前年、生産疎開してきた小倉工機部新田原分場にて作業するよういわれ、まだ未完成だった、道場寺の日豊線沿いに建設された新田原工場にて働くことになった。
周辺は果樹園を中心とした農村地帯とはいえ、近くの海岸沿いに築城海軍航空隊があったため、再三にわたって飛行場が空襲され、その都度、警報のサイレンと共に職場を離れ隣接する桃畠に飛び込んだ。
距離的には約四キロメートル離れていたが、ザーッという音と共に、地面に炸裂する爆弾の地響きは、不気味そのもので、思わず地に伏して頭に手をやり、耳を塞いだものだ。
翌日通勤してきた工員さんたちから、稲童地区の農家で爆撃の煽りを食って死人が出たことや、築城基地の前にある池の周辺には、海軍の兵隊さんたちが機銃掃射で撃たれ、死体がいっぱい浮いているという話を聞き、今も当時の空襲のすさまじさが心に凍りついている。
その後、築城海軍航空隊は特攻中継基地となり、零戦や艦爆が空襲の合間をぬって離着陸していた。
顔全体に大火傷をしたすごい形相の搭乗員や、一見して予備学生出身と思われる特攻隊員などで、私共が下車した夕方の築城駅頭はごった返していた。こうした情景を一中学生だった私がどんな感慨をもって見ていたか、憶えていない。
昭和二〇年八月一五日、太平洋戦争は、日本が連合軍に降伏して終わりを告げた。
同九月二日、築城海軍航空隊は廃止され、基地は国有地として大蔵省管轄となった。