一、県民に対して学制の趣旨を徹底させること。
二、各地に小学校を設置すること。
三、小学校の設置場所や運営費用について指導、あっせんすること。
四、教員の養成とその配置、勤務の適正をはかること。
これに関して小倉県では、明治五年六月四日、太政官布告を先取りして、左記のような告諭(達示)を出した。
学校ヲ興シ人材ヲ教育スルハ方今ノ急務ニ候得ハ別紙告諭ニ基キ従来之慣習ニ安着到居候流弊ヲ破リ奮然勉強文明之道開キ人民耳目ヲ更メ積金等ヲ謀リ学資ヲ供シ近日小学校之義ニ付一定之規則相達候節速ニ開校相成教育之筋相立候様此告諭ニ基キ小前末々ニ至ル迄精々説諭至シ実効相運ヒ候様可到候事 |
壬申 七月 小倉県 |
(「学制ニ関スル告諭」明治五年) |
引き続いて「小学校開校ニ付告諭文」を発して、広く学制の趣旨を徹底させ、学校設立及び就学を督励した。
行橋地方では、これらの告諭を受け、早速明治五年に稗田小学校、行事小学校、時習小学校(大橋村)などが創立された。中でも最も早い創立は、江戸時代から私塾として多くの門下生を輩出した「水哉園」を有している稗田小学校で、学制頒布二カ月前のことである。
しかし、当時の国民の教育への理解を得ることは大変困難な上、財政的にも見通しの暗いものであった。また内容的にもこれまでの寺子屋や藩校での儒学中心の教育から、西洋風の翻訳調で、しかも個人尊重の教育思想をもつこの学校制度について、一般への理解・普及を図ることは至難であった。