明治六年県官区戸長協議ノ上民力ノ程度ニ応シ各郡村課金ノ方法ヲ設ケ七年六月伝習所ヲ開キ管内一般其教則ニ依遵セシム爾来人民教科ノ的切ニシテ学事ノ緊要タルヲ弁解スル者稍其類ヲ増加シ各村相競フテ己カ村内ニ学校ヲ建設セント欲スルノ情アリ又管内各所往々小学校新築ノ届出アリ……
と報告されている。つまり関係者が協議し、各郡村相応の課金方法や、教員養成所開設並びに各種教則に従うことなどを決議したところ、理解を得て、各村競って小学校建設を届け出たというのである。
さらに、県通達として「貧民ノ子女ヲ学ニ就カシムルノ法」には、
貧しい家庭の子どもは就学の余暇の余裕がない。また仮に時間があっても資金がない。今就学させるには余暇と資金を与えねばならない。学術普及のため貧しい家庭の子どもと言えども就学させねばならない。時間は旧正月から三月節句までは農家も余暇がある。この二カ月間と夏冬の農閑期各一カ月の計四カ月は、教員の給料を増す制度を立て、夜学をも兼務せしむ(中略)。今小学校の授業料を徴収せずして貧民の就学の便を図っても入学するもの稀なり。故に旧来の慣習により委托金の功用を発揮すれば子女挙げて学に就くべきなり。
とある(県通達を現代文に要約)。
その後、明治九年年報の「民心向学ノ状況」には、
明治五年学制御発行ヨリ明治七年ニ至ルマテハ旧慣ニ泥ミ学問ノ何物タルヲ弁知セサル者十中ノ七八ナリシカ明治八年ニ至リ漸ク旧面目ヲ脱却スルノ景況ニ進歩シ生徒ノ勉強前日ニ倍セリ
と、人民の向学心の高まりが報告されている。
なお、当時の授業料については、報告書に次のように明記されている。
一名三銭トス一家三名ノ子弟ヲ出スモノハ二名分即チ六銭ヲ収入ス(中略)依テ土地ノ貧富ト進歩ノ度ニ応シテ収入スルアリ収入セサルアリ
参考までに、当時の米一俵の価格は二円五銭から一円一八銭だった。現在の米価に合わせると、三銭は三〇〇円に該当すると考えればあまり高いとはいえない。
これらのいろいろな報告から、当時の小倉県や各町村が学校建設や就学率を高めるため試行錯誤しながら、近代教育の普及を図ろうとしたことがよく理解できる。
学制頒布後数年の小倉県の就学率や学校建設の状況は表1のとおりである。
表1 明治初期小倉県の就学状況 | |||
年次 | 学齢人員 | 就学者 | 就学率 |
明治5年 | 36,807人 | 11,092人 | 30.7% |
明治6年 | 39,062人 | 11,062人 | 28.3% |
明治7年 | 46,152人 | 14,250人 | 30.9% |
明治8年 | 49,524人 | 15,109人 | 30.5% |
明治8年の第5大学区学校設立状況 | |||
小倉県の人口 | 319,687人 | ||
第35・36中学区 中学校 | 1校 | ||
小学区507のうち 開校 | 272校 | (54%) | |
学齢人員 | 49,524人 | ||
うち就学 | 15,109人 | (30.5%) | |
不就学 | 34,415人 | (69.5%) | |
満6歳未満で就学 | 279人 | ||
満14歳以上で就学 | 926人 |
表1からもわかるように、学齢児は毎年数千人増え、学校も次々に建設されているものの、就学率は三〇%前後で、国や県町村の努力の割にはあまり伸びていない。この原因は、子女の教育に対する考え方や必要性、授業料などの経費負担問題、それに教育内容や教師不足の問題など、いくつかの要素が挙げられる。
なお、明治五年から八年までの行橋地区の小学校設置状況は表2のとおりである。
表2 明治5~8年の小倉県行橋地区の小学校設置状況 | ||||||||||
創立年 | 校名 | 明治7年児童数 | 同教員 | 明治10年児童数 | 同教員 | 主者 | ||||
男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | 男 | 女 | |||
明治5 | 稗田村稗田小 | 50 | 4 | 2 | 57 | 10 | 2 | 2 | 守田慈純 | |
行事村行事小 | 90 | 18 | 3 | 67 | 19 | 6 | 4 | 菅源太郎 | ||
大橋村時習小 | 120 | 35 | 3 | 144 | 45 | 4 | 4 | 中尾勇二郎 | ||
今井村育英小 | 82 | 7 | 2 | 98 | 11 | 5 | 4 | 片山豊盛 | ||
(京都郡誌は明治8年説) | ||||||||||
明治6 | 二塚村致道小 | 55 | 7 | 2 | 44 | 3 | 3 | 2 | 山田誠一 | |
下崎村惟新小 | 25 | 7 | 1 | 37 | 12 | 2 | 2 | 宮崎文七郎 | ||
大野井村大野井小 | 15 | 6 | 1 | 安広嘉作 | ||||||
のち 歓善小 | 37 | 3 | 2 | 3 | ||||||
天生田村天生田小 | 23 | 2 | 1 | 神崎定次 | ||||||
蓑島村蓑島小 | 38 | 7 | 1 | 守田初平 | ||||||
のち 為善小 | 50 | 14 | 4 | 1 | ||||||
明治7 | 福丸村永清小 | 20 | 4 | 1 | 33 | 9 | 3 | 1 | 毛利良蔵 | |
(求清小という資料もある) | ||||||||||
入覚村酬邦小 | 30 | 4 | 1 | 44 | 3 | 2 | 2 | 村上丹蔵 | ||
流末村流末小 | 13 | 2 | 1 | 向井二三 | ||||||
矢留村矢留小 | 31 | 3 | 1 | 井口俊蔵 | ||||||
崎野村崎野小 | 18 | 2 | 1 | 奥清三郎 | ||||||
沓尾村沓尾小 | 27 | 5 | 1 | 原田弥十郎 | ||||||
津留村津留小 | 23 | 1 | 1 | 片山豊廣 | ||||||
元永村元永小 | 30 | 5 | 1 | 西頭民蔵 | ||||||
稲童村稲童小 | 41 | 10 | 1 | 村上直七 | ||||||
のち 就将小 | 52 | 7 | 3 | 3 | ||||||
松原村松原小 | 29 | 6 | 1 | 堀権蔵 | ||||||
馬場村馬場小 | 22 | 4 | 1 | 菊池彦七 | ||||||
道場寺村道場寺小 | 43 | 1 | 秋満植蔵 | |||||||
のち 生々小 | 97 | 9 | 6 | 4 | ||||||
草場村草場小 | 26 | 1 | 秋満栄蔵 | |||||||
柳井田村柳井田小 | 10 | 1 | 安藤彦平 | |||||||
明治8 | 竹田村発育小 | 31 | 1 | 2 | 2 | 不明 | ||||
出典:『福岡県教育百年史』 |