明治五年八月の学制は四民平等の立場から、全国民を対象とする学校制度である。
この公布を受け各府県は新しい学校観の普及を図り、学校の設立と就学の告諭を発し、国民生活の改変に努めた。特に「厚ク力ヲ小学校ニ可用事」として、小学校の普及充実を重視した。
この小学校の設立は、人口六〇〇人に一校を基準とした。また、新政府は、九月には「小学教則」を公布して、教育課程の基準も示した。
この時の学校設立は、それまでの寺院や民家における寺子屋や私塾などを学区制に基づいて併合し、それを小学校に再編する形態が最も多かった。したがって明治八年になっても寺院借用が四割、民間借用が三割を占めていた。児童数は概ね四〇~五〇人規模で、これを一人ないし二人の教師が指導した。
学校の経費について学制では授業料を月五〇銭とした。これは当時極めて高額であったため、県町村は減額措置を講じ、学校運営費は各戸割当金や寄付金、それと文部省補助金に頼った。
ここで行橋小学校の沿革史から、明治初期の学校統廃合の様子を見てみよう。
明治五年八月、京都郡行事村油巣(現行事一丁目三番付近)に行事小学校、仲津郡大橋村下道(現大橋一丁目九番付近)に時習小学枚を創立。時習小には宮市村の児童も通った。
明治七年の児童数は行事小一〇八名、時習小一五五名で、それぞれ三名の教師が担当した。明治一〇年の行事小では八六名の児童を一〇人の教師が、時習小では一八九名の児童を八人の教師が指導している。
明治一九年の小学校令及び県令一九号を受けて、翌二〇年九月に両校は合併し、大橋尋常小学校となって、大橋村下正路の現在地に新築・移転した。その後、明治二二年四月、行事村、大橋村、宮市村の合併により行橋町が誕生。これにより行橋町立行橋尋常小学校となった。
このように、明治二二年四月の町村合併の推進により、小さな村々が合併して一つの行政村となった。この時、京都郡には一町九村が、仲津郡には一三村が誕生。これにより町村立小学校が次々と設立された。