教育令の公布

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 明治一二年(一八七九)九月、それまでの七年間、学校制度の充実をめざしてきた「学制」が廃止され、新しく「教育令」が太政官布告された。その大きな要因は、依然として就学率が向上しないことである。当時の学齢生徒の就学率は、全国平均で三九・九%、小倉県では三〇%前後の低さであった。
 いま一つの要因は、教育内容として西洋風のものが多く取り入れられたが、実生活とややかけ離れたものだったことから、知識人や一般民衆からも疑問の声が大きくなったことである。
 新教育令の主な内容は、
 
1 新教育制度として実生活に即した学科・内容とし、その定着を図る。
2 小学校の就学の期間やその条件を緩和する。
3 教育行政を、住民から公選された学務委員によって管理・推進する。
4 学校を公立学校と私立学校に区別する。

 
等々、これまでにない、地方の権限を多く認める制度となった。
 しかし、この制度には直ちに政府内でも異論を唱える者が多くなり、翌明治一三年一二月、これまでの教育令を改め「改正教育令」を公布した。これによって学務委員の公選制は廃止され、知事や県令による任命制となり、その職務内容も変化したが、いずれにしても学校教育の確立や普及に果たす役割は大きかった。
 翌一四年に再度改正し、学務委員制を廃止して町村の学事は戸長に委ねた。また「小学校教則綱領」も制定し、小学校の修学年数を初等科三年、中等科三年、高等科二年の八カ年制とし、一年の授業日数を三二週以上、一日の授業を三~六時間とすることなどを定めた。