水哉園の閉校

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 村上仏山が天保六年(一八三五)、故郷上稗田に開いた私塾「水哉園」には、明治五年の学制頒布や同一二年の教育令の施行など、新しい教育制度の実施にもかかわらず、仏山の人徳や名声を慕って西日本各地から入門者があとを絶たなかった。
 水哉園は、明治一二年九月、仏山の死(享年七〇歳)によって弟貴之の三男碩太郎(静窓)が養子となって塾を継ぎ、明治一五年には「水哉園私学校」と改称した。しかし相次ぐ公教育の整備の波に押され、明治一七年、開塾以来五〇年、学制頒布から約一〇年、三〇〇〇人の門下生を世に送り出した水哉園も、ついにその幕を閉じた。
 門下生の中には末松謙澄(慶応元年入門・逓信大臣)、杉山貞(明治三年入門・小倉高女校長)、安広伴一郎(明治六年入門・満鉄総裁)、吉田増蔵(明治一二年入門・漢学者)等々、明治から大正にかけて政界や学界で活躍した人物も多く、郷土に残した功績は大きい。