明治一八年(一八八五)一二月、日本で初めての内閣制がスタートし、伊藤博文が初代首相となった。そして教育と学問に関する事務を管理する文部省の、初代大臣に森有礼が就任した。彼はヨーロッパで近代国家づくりを学び、帰国後は文部省に入省し、三八歳で初代文相となり、教育改革に取り組んだ。それは義務教育制の導入であり、就学率の向上策であり、教科書の検定制の導入などである。さらに、当時の軍隊の考えに基づく集団意識や規律を重視し、生徒を組織の中の一員として行動させる教育を打ち出した。その一つが運動会や行軍、修学旅行などを学校行事化したことである。
このことを受け文部省は、明治一九年四月「小学校令」を公布した。この公布を受けて、福岡県(これまでの小倉県・福岡県・三潴県は明治九年合併)でも県令一九号を発令した。その主な内容は、町村立小学校の設置区域及び校数・位置などを定めたものである。
これに基づく行橋地区の学校は、尋常小学校が五校、簡易小学校(正式には小学簡易科)が一一校、高等小学校が二校となっている。
なお、簡易小学校とは、修業年数が三年(尋常小は四年)で、教科や授業時間も少なく、その経費もほとんど公費で賄われていた小学校である。したがって財政的に余裕のない当時の町村は簡易小学校を多く設立し、授業料の減免により就学率を高めるとともに、施設の充実も公費に求める方策を取ったのである。しかしその後、簡易小学校の制度は小学校令の改正を受けて、明治二五年三月までの短命な制度で終わった。
県令に基づく現行橋市域の設立校は表3のとおりである。この表からもわかるように、今回の県令によって学校の位置やその通学区域が決定されたことで、概ね行政区も決まった。これを受け、学校の統廃合も進んだ。すなわち明治二〇年四月、第五区の尋常小と簡易小とが合併して二塚尋常小となり、同じく同年九月には第一区の尋常小と簡易小とが合併、大橋尋常小学校となって、現在地(行橋小)に新築移転したのである。
表3 明治19年県令に基づく学校設置状況(現行橋市関係分) | ||||
郡名 | 区域 | 校種 | 位置 | 所属町村 |
京都郡 | 第一区 | 尋常 | 大橋村下道 | 仲津郡大橋村、宮市村 |
簡易 | 行事村油巣 | 行事村 | ||
高等 | 行事村 | 京都郡各村、仲津郡大橋村、宮市村 | ||
第四区 | 簡易 | 上片島村片堀 | 草野村 | |
第五区 | 尋常 | 二塚村四郎丸 | 二塚村、上津熊村、中津熊村、下津熊村 | |
簡易 | 二塚村四郎丸 | 吉国村、長木村、長音寺村、下崎村、長尾村、延永村 | ||
第七区 | 簡易 | 入覚村中伏 | 入覚村、徳永村、高来村、福丸村、常松村、須磨園村、矢山村、大行事村 | |
第八区 | 簡易 | 下稗田村本松 | 上稗田村、下稗田村、前田村、中川村、検地村、下検地村 | |
簡易 | 西谷村八丈 | 西谷村、津積村、大谷村 | ||
仲津郡 | 第一区 | 簡易 | 平島村森ノ木 | 平島村、羽根木村、小犬丸村、柳井田村、竹田村、長江村、福富村、福原村、竹並村、崎野村 |
高等 | 豊津町 | 仲津郡大橋村・宮市村を除く各町村島 | ||
第二区 | 尋常 | 彦徳村居屋敷 | 天生田村、矢留村 | |
簡易 | 寺畔村中栖 | 寺畔村、流末村、宝山村、大野井村 | ||
第三区 | 尋常 | 元永村新開 | 元永村、今井村、真菰村、金屋村、沓尾村、津留村、馬場村 | |
簡易 | 元永村長井屋敷 | 長井村 | ||
第四区 | 尋常 | 道場寺村出口 | 道場寺村、徳永村、草場村、袋迫村、高瀬村、辻垣村 | |
簡易 | 稲童村畑ヶ田 | 稲童村、松原村 | ||
第十二区 | 簡易 | 蓑島村東 | 蓑島村 | |
出典:『福岡県教育百年史』 |