このとき福岡県では三〇の高等小学校設置を計画した。京都郡では行事村西町に、仲津郡では豊津村本立寺に設立することとなり、一年後の明治二〇年四月一二日、まず豊津高等小学校が、同四月一四日には行事高等小学校が相次いで開校した。
行事高等小学校は福岡県第三五中学区の、主として京都郡の小学校四カ年の義務教育修了生の進学校として開設されたが、対象区域に仲津郡の大橋村と宮市村とが加えられた。
創立当時は校舎建設が間に合わず、行事村西町の仮校舎で開校したが、その年の九月、行事小学校が大橋の現在地に合併移転したため、その跡地(行事村油巣)に移った。
その後、明治二五年四月には京都・仲津郡両郡の組合立高等小学校となり、同二九年四月、京都・仲津両郡の合併により京都郡立高等小学校となった。更に同二九年九月には延永村下津熊に移転。同三三年には準教員養成所を設け、後には小倉師範学校へ進学する者もいた。
明治四〇年三月、再度の小学校令の改正で小学校義務年限が四年から六年に延長され、同四三年には二カ年制の高等小学校となった。
このような変遷をたどった学校組合は、大正四年三月三一日をもって解散し、各町村は尋常小学校に高等小学校を併置することとなり、行事高等小学校は二八年間の歴史に幕を閉じた。
この間、明治三三年(一九〇〇)一〇月には、当時の陸軍小倉第一二師団の軍医部長だった森鴎外が、地元有志の要請を受けて、同校で生徒や京都郡指導者に対して倫理学に関する講演を行うなど、行事高等小学校が地域の教育向上に果たした役割は大きい。
大正元年、行事高等小学校に併置されていた行事実業女学校の在学生だった吉武貞子は、『京都高等学校四十年史』に当時の様子を次のように寄稿している。
……前には長峡川、後には延永平野。その境を緑の杉垣で囲まれたコ字形の校舎でありました。正門の左の門柱には『京都郡立行事実業女学校』右には『行事高等小学校』の校札が掲げられており、門の内には空高く聳える老松と巨大な欅がこの学校の象徴でありました。
老松の聳えていた校地校舎。今はその面影すら留めておらず、行事高等小学校の名前は人々から忘れ去られようとしているが、この学校こそ明治の終わりから大正の初めにかけて、京都郡唯一の中等教育の草分けとして幾多の有為な人材を送り出した学校でもあった。