藩校育徳館から豊津中学校へ

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 明治元年(一八六八)一一月、小倉藩の藩庁が豊津台地に移転することが決まり、その造営工事が始まると、藩校の建設も同時に行われた。藩校「育徳館」は、明治三年一月、藩士の子弟の教育のため開校した。さらに、同年一〇月には、分校として大橋に「大橋洋学校」も開かれた。これらの学校開設については「近世・教育編」にくわしく記述されているので参照していただきたい。
 明治六年、藩校育徳館は廃校となり、大橋洋学校と合併して、私立の育徳学校となった。さらに、明治一二年九月、福岡県立豊津中学校として新しいスタートを切った。
 明治一〇年代の終わりから二〇年代にかけて、地域住民にも広く門戸が開放され、行橋市域をはじめ旧豊前国内の各地から入学者が集まってきた。
 しかし、藩校から県立の中学枚へと移行した豊津中学校は、しばらくの間これまでの経緯もあって、地区住民にとっては士族の学校というイメージが払拭できなかった。明治一五年春、この豊津中学校に入学した堺利彦は、自伝の中で当時の豊津中学が、依然として士族の学校の雰囲気だったことを、次のように記している。
 
 私ハ中学校デ、初メテ士族以外ノ人間ニ接触シテ、少シ世ノ中ヲ知リ始メタ。豊津ノ町ノ者ハ一人モ中学校ニ来ナカッタ。豊津ノ者デ中学校ニハイルノハ皆ナ士族デアッタ。豊津中学校ハ藩校育徳館ノ後身トシテ、士族ノ学校タルノ観ガアッタ。

 
 明治一九年四月の中学校令改正により、豊津中学校は豊津尋常中学校となった。さらに同三四年五月、福岡県立豊津中学校と改称。以後この名称は昭和二三年の学制改革までつづいた。