女子を対象にした中等教育の必要性が高まったのは、明治の終わり頃である。
明治二七年の日清戦争、三七年の日露戦争に勝利した我が国は、女性に対して一家の主婦としての人格、知識技能を養成する目的のもと、生活に直結する実業的な教育の実施が重要視されるに至った。そのため、明治四三年、蓑島など四カ所に小学校卒業後の実業補習学校を設置したが、期待する成果が得られなかった。
この反省のもと、明治四五年(一九一二)、京都郡でも一学年一学級、三年制の郡立行事実業女学校と豊津実業女学校の二校が創立された。
この二校の実業女学校は京都郡の女子中等教育の草分けであったが、開設を急いだために専用校舎は持たず、行事高等小学校と豊津村立高等小学校の校舎の一部を借り受けての開校であった。加えて、授業料が一カ月五〇銭と高額だったため、入学希望者は入学定員に達することなく、その経営は極めて困難だった。
京都郡会では、郡財政からもこのまま、二つの実業女学校を存続させるより、県立高等女学校の新設を働きかけることとなった。大正五年一〇月、京都郡会は、県知事に県立高等女学校設立の意見上申を行い、近い将来、県立となる郡立京都高等女学校の設立を前提として、大正六年三月二七日、行事実業女学校の廃校を決定した。
わずか五年で廃校となった行事実業女学校は、同年四月、豊津実業女学校に吸収合併された。