行事実業女学校が廃校となった直後の大正六年四月一日、より高度な女子中等教育をめざして、京都郡立京都高等女学校が誕生した。しかしながら、校地校舎が間に合わず、とりあえず、下津熊にあった明治二八年建造の行事実業女学校を、仮校舎として開校した。
学校規模は、第一学年は入学試験による六〇名、第二学年と第三学年は編入試験により各三三名、計一二六名で開校・入学式を迎えた。
全生徒は紋付に白足袋、茄子紺の袴という服装で、初代中川直亮校長の、
1 品位在る生徒になれ
2 勤労の習慣を養え
3 風紀の厳正を期す
4 学力の充実を計れ
5 健康の増進に努めよ
という心得を意義深く聴いたという。
しかし、実業女学校から編入した生徒には、国語、数学の基礎学力が相当に遅れていたため毎日始業前三〇分間の補習授業を行い対応した。当時自転車による通学生は一名もなく、全員徒歩による通学ながらも、喜びと感謝の気持ちで補講を受けたという。
続いて大正七年四月一日、郡立から県立に移管され、福岡県立京都高等女学校となって、郡内はもちろん、北九州地区を含めた女子教育の中心校として第一歩を踏み出し、大正八年三月、第一回卒業生二八名を送り出した。
大正九年四月、現在地の門樋上町で始まった新校舎建築は、「鉄筋の福岡中学、木造の京都高女」と言われるほど県直属の校舎建築としては当時のモデルケースであった。完成は大正一二年七月。三年三カ月を要して建てられた校舎は、玄関の二階部分が講堂で一段と高くそびえ、その左右は全く対称の画期的教室配置であった。