戦争末期の教育

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 昭和一六年一二月、太平洋戦争突入後は教育全体が非常体制下に入り、昭和一八年以降、教育に関する「戦時非常措置方策」、「学徒戦時動員体制確立要綱」、「軍事教育強化ニ伴ウ授業時数」などが矢継ぎ早に発令・公布されるに及んで、学校教育は事実上実施不能となった。
 国民学校の児童たちは、落ち穂拾い、学校周辺の空き地の利用や土地開墾による食糧増産活動、農村への勤労奉仕、戦地への慰問文作成などの作業に追われた。
 戦争が激化していった昭和一九年に至り、「学徒動員令」が発令され、中等学校生徒は「学徒報国隊」を結成して、各地の工場に配属されていった。
 豊津中学校では、一年生を除く全校生徒が、日本曹達苅田工場、安川航空電機行橋工場、岡野バルブ行橋工場、国鉄小倉工機部などに動員された。
 京都農学校では築城飛行場や出征兵士留守宅の農耕作業に従事。中には遠く北海道まで食糧増産戦士として出向き、米作りなどの厳しい生産活動に従事した。
 京都高等女学校も「女子挺身隊」を結成し、同年八月から福岡市の九州飛行機株式会社、日本曹達苅田工場、安川航空電機行橋工場へと動員された。
 こうして、中等学校の教育機能は停止した。米軍の本土襲撃がいよいよ厳しくなる中、政府は昭和二〇年四月からの一年間、中学生以上の授業停止を決定するなど、学校教育は大混乱となった。
 八月一五日、日本列島を真夏の太陽が照りつける中、玉音放送が行われた。こうして軍事一色だった昭和前期の教育は、敗戦によってその幕を閉じた。
 
写真5 戦時下における行橋小学校の団体訓練(昭和15年)
写真5 戦時下における行橋小学校の団体訓練(昭和15年)